貧者のシナリオ
僕は夢の途上にいる、とガイアは語った。「ここにいるメンバーと、夢を一緒に見るんだ。悪くはない夢だよ。リアルな現実は、きりきりとしていて頭が痛み、言葉を失うことだって度々ある。僕はその現実をどうにかしたい、とにかくはお金だよ。貧困は憎い、しかし僕たちの周りに、それは影のように付いて回る」
「良く分からないが、難しいことは・・・・・・」と長岡さんは言った。止めどなく、優しい目をしていた。
人間が人間を救うというのは、例えようのない美徳だよ。君の行動は圧倒的に正しい、成功を祈っている、彼はそう言って、笑った。
八月の一日に『貧者のシナリオ』はリリースされた。準備は周到だった。恵は、ガイアの会社に就職することにした。経理や雑務などを担当するらしかった。彼の考え方に、賛同したかたちとなった。『貧者のシナリオ』の広告は大々的に打たれ、ユーザー数はみるみる増えていった。
『貧者のシナリオ』には、トライアル期間が二週間あって、それを過ぎると月額千二百円がかかった。ゲームの完成度は高く、また人との繋がりを持つことができる。僕はユーザーとして、このプロジェクトに参加しているわけだったが、わりと楽しみ、満足をしていた。週に一度、簡単なレポートをガイアにメールで送る。レポートは長くなることもあったし、短い場合もあった。
ストーリーは秀逸だった。さすが、有名ゲーム会社勤務の『脚本家』が担当しているだけはあった。
このゲームはパソコンからでも、携帯からでも行うことができた。僕は職場の昼休みに、『貧者のシナリオ』をやっていたら、同僚の田口沙也佳が話しかけてきた。
「川口さん、何のゲームをやっているの?」
「『貧者のシナリオ』だよ。僕が関わっているゲームでね、友達が配信している」
「へえ、世の中は狭いものね。でも、そのゲーム、面白くないでしょう? 私、ちょっとだけやって、止めちゃった」
どうして? と僕は尋ねた。
「だって、お金の話ばかりだもんね。現実でもお金できりきり舞いだって言うのに、ゲームのなかでもお金のことを考えたくはないわ・・・・・・。相当やりこまないと面白くはないと思う」
確かに、彼女の言うとおりだった。『貧者のシナリオ』の人生ゲーム編は、結局、お金と資産の多さが勝敗を決めるし、人気のあるユーザーは決まってお金を持っていた。ガイアは、現実で貧者を救おうとしている、しかし、その救う元手となるゲームでは、お金が幅を利かせている。そこには、壮絶なパラドックスがあった。
「それより、今夜、晩ご飯を一緒に食べに行かない? 会社の近くに新しいイタリアンのレストランができたのよ」
「構わないよ、ちょうど夕飯をどこかに食べに行こうと思っていたぐらいだから」僕はにっこりと微笑み、彼女を見た。
季節は秋で十一月の始めだった、『貧者のシナリオ』をリリースして三ヶ月の時間が経過している。僕のオフィスは品川にあり、駅からは近い。高層タワーの二十五階がオフィスだった。
僕は沙也佳と歩いていた。彼女は既婚者で、年齢は二十六歳。夫は外資系の証券会社に勤めていて、お見合いパーティーで知り合った。僕は彼女と仲が良かったし、時々、飲みに行ったりもする。
イタリアンのレストランへ行って、ワインを二本空け、それからショットバーへ行って、カクテルやウイスキーを楽しんでいた。
僕は酔っていた、からだは火照っていたし、意識が酩酊していた。軽い頭痛もした、しかし、心地良い頭痛だった。
ゲームを作るっていったいどういう気分かしら? と彼女は言った。彼女はブラディ・マリーを飲み、宙を眺めていた。店員は、グラス磨きをしている。店内には、客がおらず、ジャズミュージックがかかっていて、ムーディーでしっとりとした夜を演出している。
「川口さん、恋愛をしているでしょう?」
「どうして分かったの?」
「なんとなく・・・・・・、それとなく雰囲気で」
彼女は無邪気に笑った。僕はジンフィズを飲み、煙草を吸った。今夜の彼女は、いつになく魅力的で、妖艶だった。
「恋愛がしたくなってきた、でも、もう後戻りはできないから無理よね。結婚生活って、けっこう失うものも大きいのよ」
「人生を巻き戻すことができたら?」
「私は学生時代に戻りたいわ、あなたは? いつの時期に戻りたい?」
僕は高校時代の美咲との三ヶ月の時間に戻りたかった、あの時期が一番多感だったし、幸福だった。恵も悪くはなかった。彼女は綺麗だし、性格も良かった。しかし、決定的に何かが欠けていた。
何が欠けているのだろう、と僕は少しのあいだ考えてみた。だが、分からなかった。彼女は過不足なく、僕に安心と幸福を与えていた。僕たちのあいだは、うまくいっている。この上なく、幸せというわけではないが、まずまずの幸福がここにはある。
「高校時代に戻りたいね、初恋の続きを味わってみたい」
彼女は笑った。
「初恋には、たいてい実りがない」
「それは間違っていないね」
「実は、私、浮気をしているのよ」と乾いた声で彼女は言った。僕は耳を疑った、彼女の家庭は円満で、会社でも有名だったからだ。
彼女の浮気相手は、大会社の御曹司だった。ショットバーで知り合って、懇意になり、一夜を共にした。彼女は彼のことを愛している、と言った。夫とは、最近、うまくいっていなかった、帰りは遅かったし、愛しているの一言も一年以上聞いていなかった。彼女は退屈だったし、寂しかった。御曹司はずいぶんな金を持っていたので、夫と別れる際には、慰謝料を負担すると言っていた。沙也佳のことを愛しているのだ、と彼は言った。だから、一緒になりたい、と。
彼女には、そんな勇気はなかった。関係は平行線を辿っている、そして夫は彼女が浮気をしていることに、気がついてはいなかった。後ろめたい気持ちはあった。でも、あなたが悪いのよ、私のことを構ってくれなくて、愛しているという言葉も口にしなくて・・・・・・。
僕はその話を聞いて、ふと恵が多くの男性とセックスをしていたという事実を思い出した。彼女は温もりが欲しかったのだ。ある種の温もりを必要としていた。
「恋愛をするのは悪くはないわよね。私は夫も愛している。好きで一緒になった男だもの、簡単に捨てることはできないの。だけど、その御曹司と一緒になったら、私にはたくさんのお金が手に入る。もう、一生働かなくても良いぐらいのものがね」
「君が職場からいなくなると、寂しくなるね」
「いなくならなわよ、私はこの仕事が好きだし」
「僕は辞めるかもしれない」
「どうして?」
「『貧者のシナリオ』を運営している会社に行くかもしれない」
「あのゲームはくだらないわよ、きっと今に人気が急落すると思うわ。そうそう仕事を変えるものじゃないと思う、その会社が倒産したら、あなたどうするのよ・・・・・・」
僕はガイアのことを話した。彼の人となりや、抱いている信念、目的、貧困から人々を救おうとしていることや、優しい一面、富豪であることについて。
作品名:貧者のシナリオ 作家名:Murakami.Lia