貧者のシナリオ
孤児院は千葉県の郊外の町にあった。小さな孤児院で、およそ二十人の子供が暮らしている。外観はみすぼらしく、建物は古かった。孤児院の園長先生は髭を生やした偉丈夫で、まるで熊みたいな男だった。
「こんにちは、藤原さん」
園長の名前は藤原光俊だった。年齢は四十二歳。髪はくしゃくしゃで、うっすらと髭が生えている。
子供は六歳から、十五歳ぐらいまでの年齢だった。男女比は半々といったところだ。彼らは、ガイアの姿を目に認めると、走り寄ってきた。
「賢治さん、遊びに来てくれたんだ?」
賢治? 僕はそれがガイアの本名であるということを飲み込むのに、時間が掛かった。
「僕の本名は赤坂賢治、君とはもう長い付き合いだから、本名を名乗っていても良いと思ってね。だけど、僕はガイア、ガイアという名前を気に入っている」
孤児院のリビングは広かった。そこには、少女が座っていた。肌が白く、髪の短い少女だった。妙に美しかった。可憐と言う言葉が、良く当てはまった。僕は彼女に話しかけてみたかったが、しばらくしても何も言葉は浮かび上がってこなかった。まるで、西洋の絵画を切り取ったみたいだった。
「心美、元気だったか?」とガイアは言った。彼女は目にひかりを灯して、ゆっくりと二回頷いた。そして、彼女はにっこりと笑った。
赤坂さんからの寄付金のおかげで孤児院はずいぶん助かっています、と藤原さんは言った。いくら感謝しても、足りないぐらいです。
僕も、孤児院の出身ですから・・・・・・、このぐらいはたいしたことじゃないです。園長先生の方が偉いですよ、人生の大半を使って子供達の面倒を見ている、なかなかできることではありません。
僕たちはリビングの椅子に座った。園長先生は紅茶を振る舞った。心美はずっと視線をガイアに集めていた。ガイアの周りには、他の子供たちが囲んでいた。しかし、藤原さんが彼らを注意し、追い払った。部屋には、僕とガイア、心美と藤原さんだけになった。
「心美は、とある事件のショックで心を閉ざしている、新聞記事にもなった陰惨な殺人事件で、彼女の両親は亡くなってしまった。彼女もその場に居合わせたが、犯人は何故か彼女を殺さなかった。何故なのかは分かっていない、とにかく彼女は生き残った。生きていかなくてはならなくなった」とガイアは僕に説明した。
そして、藤原さんが口を開いた。
「彼女には、身寄りがありませんでした。そこでこの孤児院にやってきたのです。ここで、彼女はなんとなく日々を過ごしています。他の子供は、彼女とあまり話したがりませんし、彼女の方でも一人でぼんやりとしているときが多いです。ところが、賢治さんには、不思議と心を開こうとしている。と言っても、まだ十全ではありません。彼女の心は、欠けてしまったのです」
心美はじっと黙って聞いていた。本当に、うっとりするぐらい美しい女の子だった。
「赤坂家の養子に頂きたいと思っています。心美の気持ちを知りたいですね」
その申し出には、さすがの藤原さんも驚いた様子だった。
「ちょっと待ってください、賢治さん。嬉しい申し出ですが、それはいくら何でも、あなたにご迷惑だと思いますし・・・・・・」
「赤坂家の総意です、このままでは彼女の人生は彩りを失ってしまう、僕は救いたいのです。彼女の人生を正しい方向へ導いていきたい」
彼女は黙っていた。ガラス玉のような目が、ぼんやりとガイアを眺めていた。
「高校に行って、大学へ行って、そのあとは好きにすると良いよ。僕は束縛したりしない。貧しいということは、何も君の責任じゃない。両親は殺されて亡くなった。しかし、犯人が君の人生を救ってくれるわけでもない。僕が救いたい、どうかな?」
「来月まで、時間を頂けますか。少し、考えてみます。お言葉に甘えても良いかどうか」
やっと話した彼女の声は、透き通るような綺麗なものだった。
「私はあとで、じっくりと心美と話し合ってみます。嬉しい申し出ですが、突然過ぎて彼女も驚いていることでしょうね」
「どうして賢治さんは、私に優しいのですか? これまでもいろいろ物を買って頂いたり、美味しい料理を食べさせて頂いたり・・・・・・」
「君のことを妹のように思っている。僕には生き別れた妹がいてね、今でも消息が分からない。僕は君が大事だし、より幸せになって欲しいと思っている。養子になることで、何か負担が僕の家に生じるわけじゃない、君も知っているとおり、僕の家はブルジョアだ、つまり富裕層だ。父親も母親も、君のことを歓迎している」
彼女の瞳には明るいものがひかりを取り戻していた。新しい生活に期待を寄せているのだろうか。あるいは、ガイアの持っている言葉のちから強さに、勇気が湧いてきたのか。ガイアが心美と二人で話したいと言うので、僕は藤原さんと散歩に行った。近くに公園があり、そこのベンチに座った。
赤坂賢治さんは、私の孤児院の救世主です。国の補助だけではやっていくことは難しかったのですが、彼が五年前から寄付金を送ってくれています。彼は情熱と確かさを持った誠実な人間です。かつて、彼も孤児院にいましたし、その貧しさは骨身にしみています。成長してから、貧しくなるのは、その大人の責任も多少はあると思います。ですが、彼らは子供です。何の責任もない。孤児になるには、多種多様な理由があります。誰も好き好んで孤児にはなっていません。温かい人間が、少なくなった世の中です。救いの神もおそらく、そのちからを失っています。心美の養子の件ですが、ありがたい話です。彼女の未来は、明るいものへ変わっていくでしょうね。
僕は彼の話をじっと黙って聞いていた。彼は、ポケットからセブンスターを一本取り出して、吸った。僕は彼が持っているセブンスターを貰った。そして、口元で加えて、火を点けた。
「孤児院の夜は、祈りのような夜です。明日には、すべてが好転するように、と誰もが願っています。ところが、祈りは届かない。現実は冷たく、厳しいのです」
「そうですね」
「でも、希望は捨てるわけにはいかない。焼かれながらでも、希望に向かっていく必要があります。私が言っている意味、分かりますか?」
僕らは公園に一時間ぐらいはいた。藤原さんの人となりが分かったし、いろいろ話を伺うこともできた。それは、僕の知らない世界だった。僕は貧しさとは無縁のところで、これまで生きてきた。だからこそ、僕は貧困に立ち向かっていかなくてはいけないのではないだろうか・・・・・・。
帰りの車のなかで、ガイアは貧困について語った。そして、会社の収益金の使い道は、孤児院への寄付だった。世界中の孤児院に少しずつお金を渡していく。未来がある子供たちの助力になりたい。一緒に未来を描いていきたい、と彼は語った。
「ガイア」
「何だい?」
「君はやっぱり救世主だよ。この世界は間違っている、膨大に編み込まれたシステムの底辺に、貧者は存在する。貧者にだってシナリオがある。『貧者のシナリオ』がね」
彼は笑った。
「実は、僕が書いた小説は、とある出版社の新人賞を取っている。また、会社の収益の半分を福祉に当てるということを大々的に発表する。すると、どうなると思う?」
「分からないな・・・・・・」
作品名:貧者のシナリオ 作家名:Murakami.Lia