貧者のシナリオ
「もう、終わったことじゃないか」
「そうね、過ぎ去ってしまったことは仕方がないわね」彼女はため息をついた。そして、起き上がって、キッチンへ行き、冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターを飲み、ぼんやりと立っていた。
まだ、ガイアのことが好きなのかもしれないな、と僕は思った。
吉祥寺から、渋谷の自宅に戻った。インターネット・エクスプローラーを開いてみると、ガイアからメールがあった。彼にはメールアドレスを教えていたのだが、初めて使ったことになる。件名は、『ワンフォアオール』。それは、僕への新しい会社への誘いだった。僕は落ち着くために、コーヒーを飲みながら、そのメールの文面を何度も読んだ。
メールの内容はこのようなものだった。ガイアはソーシャルネットワーキングゲームでの会社を夏に作る。ゲームは、もう既にできている。ガイアが枠組みを作り、『脚本家』がシナリオを担当し、『クイーン』がグラフィックデザインを担い、『ミュージシャン』(初耳だったが、今回のプロジェクトに参加しているらしかった)が作曲した。シンプルな人生ゲームで、モノポリーのような要素を含んでいる。ゲームの名前は、『貧者のシナリオ』。グッドソングのゲームから、おそらくはインスパイアされた内容なのだろう。ゲーム内容は察しがつく。利用者からは月額料金を取り、売り上げの半分をガイアが作った基金へ寄付する。世界中の子供たちのために、その寄付は使われることを予定している。
ソーシャルネットワーキングゲームとして、ネットワーク上の友人の繋がりを重要視しているということだった。月額料金も低くなっており、サーバーはアメリカの大規模データセンターから借りていて、構築は既に終わっている。社員は、『クイーン』と『ミュージシャン』とガイアの三人だった。恵を加えると、四人になるが、彼女は参加するか分からない。『脚本家』は無報酬でこのプロジェクトに関わっていた。その会社の名前は、『テクノホワイト株式会社』。彼の新しい出立だった。
僕は土曜日の夜に、渋谷でガイアに会った。渋谷の道玄坂の深いところにあるこじんまりとしたバーで、僕は学生時代から良く通っていた。ジンが得に美味しく、落ち着いた雰囲気のバーだった。
ガイアはハーフコートを脱ぎ、ジーンズにフランネルの長袖シャツの姿となった。僕はスツールに座って、ジン・コークを注文した。彼は、ウォッカ・トニックとマルゲリータを頼み、僕の様子を見て、穏やかな表情を浮かべた。
僕はメールを読んでいたので、彼が言わんとしていることが分かったし、僕の役割も分かっていた。僕の役割は、ユーザーだった。そして、時折、ユーザーレポートを上げるというだけで、給料は支払われない。雇用契約も結ばない。つまり、完全なるボランティア。あまりソーシャルネットワークゲームに慣れていないユーザーの視点が欲しいということだった。
『貧者のシナリオ』では、文字通り現実の貧者を救う。でも、本当に救うことができるのか不透明だし、彼は働いたことがなかったし、会社経営が成り立つのかも不明だ。
「僕は貧しいことがなんたるかを知っている」と彼は言った。その言葉は、とがった弓のような感触で、僕に伝わってきた。彼は貧しさとは無縁だったはずだ。横浜の実家には、邸宅があるし、彼は麻布にマンションを持っている。車だって、高級車を保有しているし、偽物かもしれないが(そんなことは彼の冗談だろう)ブランドの時計などいくつも持っている。
「君はお金持ちじゃないか」
彼は首を振った。目には温かいひかりが宿っていた。瞳にはたっぷりの水分が含まれていて、彼の様子からすると貧しかった時期を思い起こしているようだった。
「僕は孤児院で育った。今の父親と母親は、本当の両親ではなくてね。僕の両親は、交通事故でなくなってしまった、幼いときに。僕は、引き取り手のないまま、孤児院で幼少時代を過ごした。貧しくて、とても哀しいところだった」
僕はジン・コークを飲み、彼の目を真っ直ぐに見つめた。過去を回顧する懐かしい眼差しに変わっていった。
「僕はロマンティストではなくて、リアリストだ。すべてのリアルは、あの孤児院で教わった。金の大切さ、異論はあるかもしれないが、金は命よりも重たいということをね。『貧者のシナリオ』は貧しい子供達を救うべく作ったプロジェクトだよ。同じ境遇の人間を救ってあげたい、まだちからを持たない子供たちや、どうしようもなくなってしまった人々に、同じ未来を抱いて欲しいんだ」
こころざしは素晴らしかった。彼の言葉を聞いて、僕はボランティアとして参加することに、前向きになった。何か、人の役に立つことができるというのは、胸が熱くなる想いだった。制作者視点ではなく、僕がユーザーレポートを上げることで、ユーザーの視点を手にすることが必要だということは、新しかった。彼は、小さいながら世界を作っていくのだ。小世界、小さな会社の旗揚げと、船出。
「どうか、君のちからを貸してくれないか?」
「構わないよ、仕事の合間を縫ってというかたちになるけど」
「ありがとう」彼はにっこりと笑った。そして、ウォッカ・トニックを飲み、マルゲリータを美味しそうに食べていた。
「ところで、君は恵と付き合っているんだってね。実に、おめでたいことだし、恵は実際、良い女だよ。気立ても良いし、感情の起伏も女にしては少ない」
「じゃあ、どうして君は恵と別れたんだ?」
彼はしばらく黙っていた。視線を膝の辺りに落とし、考え込んでいるような、振り返っているようなそぶりを見せた。
僕は恵のことを過不足がないと思っていた。堕胎してからの彼女は、むやみに他人とセックスをしなかったし、オフィスレディーの仕事も頑張っていた。もっとも、僕と恵は出会って日が浅かったので、まだまだ僕の目には映っていない彼女の暗部が存在するのかもしれないと思った。
何、僕の方に問題があったんだ、恵には問題がなかった、と彼は小さな声で言った。「女性に対して、恐怖心を抱いていてね、実のところ。まともに付き合ったのは恵を入れて、二人だけだった。金はあった、愛はなかった。僕の青春は、そんなところだね。僕は恵のことを愛していたと同時に、恐怖があった。その恐怖が勝ったときに、僕は別れを切り出した。どうにも耐えることができなくなって、精神が錯乱しそうになった。だから、僕が悪かったんだ」
僕はそれ以上訊かなかった、彼の顔が痛々しいものに変わっていったからだ。今まで、彼の人生は、一点の曇りもなく、上昇と成功を繰り返していると思っていた。しかし、彼はいくつかの傷を抱えて、その痛みをときどき受けながら生きていた。いや、生き抜いていた。貧しいということに、彼はおそらく相当のコンプレックスを感じていたのだろう。だから、同じ境遇にいる子供たちを救いたくなっているのだ。それが、至上命題となっている。
「ところで、『貧者のシナリオ』はいったい世の中にどれほど広まっていくのだろうね?」
作品名:貧者のシナリオ 作家名:Murakami.Lia