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貧者のシナリオ

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「彼は孤高なのです、私のような女性を元来は必要としていない。彼は語っていました。野望があり、世界で何か果たすべきものがある、と。私は、彼の夢を一緒に見ようとしていました。でも、彼はそれを嫌った。私たちは表向け恋人同士だったけど、ガイアはそう考えてはいなかったのかもしれなかった」
 彼が考えていることは、最後まで分からなかったのです、と彼女は言った。ガイアは確かにミステリアスだった。サングラスの奥に隠れている彼の思考は、解析不能な暗号のようなものだった。
 彼女は奥多摩で育った。大学では教育心理学を学び、教職者になるつもりだった。成績は非常に良く、将来を嘱望されていた。彼女自身、頭が良かったし、授業に対する態度は真面目だった。
 しかし、彼女は教職者にならずに、一般企業へ就職する道を選んだ。彼女の内なる心で、何かが変容していた。何が変わってしまったのかまでは、語らなかった。沈黙と微笑。口元に感情の平伏が浮かび上がっている。
 彼女は生真面目な性格からか、大学生の頃に鬱病を患ってしまった。きっかけが何だったのか、あるいはそもそもきっかけがあったのか、彼女には思い出せなかった。思い当たる節は幾つかあったが、原因の特定にまでは至らなかった。現在も服薬中で、時々、会社を休んでいる。
 彼女の心は渇いていた。だから、男性の温もりを求めた。妻帯者であろうが、ヤクザまがいの連中であろうが、構わなかった。渇きを癒す必要があったし、温もりを求めてやまなかった。
 しかし、誰が父親か分からない子供を身ごもったとき、彼女の頭のなかの考え方が変わった。乱雑に、セックスをすることはなくなった。その子供を産もうとしたが、両親から強い反対を受けた。
 堕胎し、一人になったときは、とても孤独だった。彼女は、部屋の隅で壁にもたれかかりながら、涙を流した。あの子供を私は育てるべきだったのだ、と酷く後悔していた。だが、彼女の子供は失われてしまったのだ。
 しばらくして、落ち着きを取り戻してくると、ガイアに電話をした。彼に、男の子の知り合いを紹介して欲しいと言った。気兼ねなくデートがしたいし、自分から誰かを探して動き回るのは億劫なの、と。セックスはどちらでも良かった。ただ、ガイアが気を利かせてホテルを予約しているだけだった。同棲時代のイメージが強い彼からすれば、彼女とセックスは切り離すことのできないものだった。
 彼女は止めどなく、疲労していた。鬱が悪化し始め、会社へ通っていくことが困難になっていた。だから、ガイアは僕を紹介した。彼は人の力量や性質を見抜くちからが備わっていた。亨は、大丈夫だろう、亨なら彼女の石ころのような心を救ってあげることができるかもしれない。
「子供には、名前を付けていたのです。私は産みたかった。育てることは難しいのかもしれないのですが、ひとつの命です。私のからだに宿ったということは、運命だったと思っています」
 彼女は急に言葉少なになった。僕は腕時計を見た。午後の五時だった。喫茶店には一時間半ぐらいいたことになる。
「少し歩きませんか? 食事にはまだ時間が早いですし」
「分かりました」
 喫茶店の会計を払おうとした彼女を慌てて止めた。僕は彼女の分と二人の会計を払った。
 すいません、ごちそうになってしまって、と彼女は言った。
 僕は何も言わなかった。微笑んだだけだった。

 新宿御苑を彼女と練り歩いているときに、僕はふと昔のことを思い出した。僕が高校の二年生の頃で、季節は夏だった。草の匂いが鼻孔を刺激する野原で、僕は美咲という女の子に告白をした。その野原は、学校の裏手にあり、人けはなかった。太陽が西に傾き、オレンジ色の世界に染めていた。
 彼女は高校でも人気があり、愛想が良かった。笑顔も素敵だったし、バスケットボール部に所属していて、スポーツが好きだった。
 時折、強い風が吹いていた。風は彼女の髪を揺らし、スカートを揺らしていた。僕はこの告白に自信がなかった。何しろ、彼女とはろくに話したことがなかったからだ。だが、彼女の出した答えは、付き合っても良いということだった。僕は飛び上がって、喜んだ。彼女と付き合っていく未来を思い描いて、ずっと心に愛を秘めていたのだ。
 愛というのは、かたちを形成すると、なかなか壊すことのできないものだ、と僕は思っている。そのときにあった愛と、ガイアと恵のあいだであった愛は、きっと性質が異なっている。僕は大きく、息をついた。
 美咲とは、三ヶ月で別れた。彼女は、元の彼氏と復縁し、僕はその彼氏に殴られた。僕は、思い切り殴り返した。唇からは血が流れていて、痛みを伴っていた。その痛みとともに、失恋は音もなくやってきた。
 久しぶりにやった喧嘩は楽しかった。彼の拳は固く、まるで棍棒か何かのようだった。僕の拳もやわではなかった。しかし、喧嘩には慣れていなかったので、僕は次第に劣勢になっていった。喧嘩は途中で、美咲が仲裁に入ったので、僕は倒れなかった。
 分かったか、二度と美咲には近づくな! 彼は息も絶え絶えで叫んだ。僕は美咲の本心を知りたかったし、二人で話をしたかった。
 別れてから、二週間ぐらいして、彼女は僕を誰もいない教室に呼び出した。申し訳なさそうな顔をしていたが、そういったことはどうでも良かった。彼女は謝罪をしたが、僕の耳には届かなかった。彼女は、最後にこう言った。「あなたといることは、少しだけ安心があった。あなたはとても良い人だし、私よりもふさわしい女の子がいると思うのよ」
 僕はその言葉の重みを、受け止めるのに時間がかかった。私よりもふさわしい女の子なんてどこを探してもいないと思ったし、彼女への愛がくすぶっていた。でも、その日を境に、彼女は僕と口をきかなくなり、目を合わさなくなった。
 しばらくのあいだ、僕は孤独だった。女の子の温もりが欲しかった。
「何か、考え事をしているのですか?」恵が僕の顔をのぞき込み、質問した。
 僕は首を振った。
「初恋のことを思い出していました」僕は照れ隠しをするように、笑った。
 新宿御苑のベンチに座っている。夕暮れどきなので、家族連れはあまりいなくて、カップルが多かった。僕たちも傍目には、カップルに見えるだろう、と僕は思った。
 ベンチは隣通しだが、適度に距離が空いている。彼女とのあいだに醸成されている空気は、温かく親密なものとなっている。僕は、恵に好感を持っている。清楚だし、綺麗だし、言葉遣いや性格も悪くはなかった。
「ガイアは、川口さんにとって、どのような人ですか?」
「ミステリアスだね。だが、人としての魅力はあります。とても魅力的な人間だと思いますね。独特の哲学を持っているし、言葉のセンスもある。彼が書いた小説を見せて貰ったことがあります。独創的だった。コンクールに送ったら、わりといい線行くんじゃないかな」
「確かに、彼はミステリアスですね」と言って、彼女は僕と目を合わせた。澄み切った、綺麗な瞳だった。彼は、世界を救おうとしているのです、と彼女は小さな声で言った。
「世界を救おうとしている?」僕は彼女の言葉を繰り返した。
作品名:貧者のシナリオ 作家名:Murakami.Lia