影さえ消えたら 6.暴露
小さい隼人を岸辺に引き上げてすぐ、呼吸を確認する。ときどき呼吸を止めたり咳き込んだりするので、抱きおこして水を吐かせた。顔にまとわりつく泥をぬぐってやりたいと思っても、自分も泥まみれになっている。
真うしろに立っていた小さい綾女が、おずおずとハンカチを差し出してくれた。まだ泣きそうな顔をしているが、口元をきゅっと結んで隼人を見つめてくる。
ハンカチを受け取って小さい隼人の顔を拭いていると、綾女はほっと息をついた。それから彼の手にあった赤いリボンの帽子を取り上げる。
泥まみれで枯草がついているのも構わず、彼女はそれを頭の上に乗せる。疲労と激しい体の痛みをこらえながらその光景を眺めていると、小さい綾女はふっと笑みを漏らした。
「お兄ちゃんがおってくれてよかった」
そう言って帽子を目深にかぶると、おもむろに河にむかって歩き出した。サンダルが濡れるのも構わず、ざぶざぶと水の中に入っていく。
「ちょっ……と、綾女ちゃん。危ない……」
小さい隼人を草むらに寝かせて、立ち上がる。激しい流れにかまわず河に進んでいく彼女の背を見ながら、綾女の名に刻まれた「×」印を思い出した。この時代に飛んできたのは、綾女を救うためだったはずだ。
思わず隼人がかけよっていくと、彼女はそれを制するようにくるりとふり返った。
「うち、生きてても隼人くんとおばさんに迷惑かけてばっかりやし、ここでサヨナラするわ」
ふくらはぎの中ほどまで水につかった綾女が、ためらいなくそう言い放った。
「何、言って……」
急速に脈拍数が上がり、喉元を押さえられたように苦しくなる。彼女は激流を背に薄く笑ったまま、帽子のふちを握る。
「隼人くんを助けてくれてありがとう。うち、お母さんのとこに行くわ」
そう言った途端、小さな体を濁流の中に投じた。
「……綾女――っ!」
全身を支配する痛みをかなぐり捨てて、隼人は地面を蹴った。再び汚濁する河の中に飛びこんでいく。疲れ切った体が言うことを聞かず、がぼがぼと水を飲んでしまう。いとも簡単に命を飲みこんでしまう河の流れに逆らうように、綾女の存在に手を伸ばす。
生きてもがいて苦しんで、その先に幸せがあると胸を張って言えない。けれど生きることをあきらめないでほしい、身勝手だとわかっていても綾女に生きていてほしい――
伸ばした腕の先に、彼女のつま先があった。サンダルは脱げて、素足が濁流にもまれていた。ありったけの力をふりしぼって彼女の足首をつかみ、そこから体をたぐり寄せていく。
彼女の体を引きつかみながら浅瀬を探して足を伸ばす。脱力しきっていた小さい隼人とは違って、彼女は抵抗した。「いやや、離して」と叫ばれて、細い爪で顔を掻きむしられても、隼人は離さなかった。小さい綾女の中にはまだ生きる力が充満していて、隼人の意思に逆らおうとしていた。
大丈夫、まだ生きられる――暴れる綾女の姿にどこか安堵しながら隼人は岸にはいずった。
作品名:影さえ消えたら 6.暴露 作家名:わたなべめぐみ