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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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影さえ消えたら 5.影消?

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 怒っている真夕の姿さえ微笑ましく感じてそう言うと、真夕は顔を真っ赤にして叫んだ。

「そんなんぜったい違う! なんでそんなこと言うん?」
「好きな子につい余計なことしちゃうの、自分にも覚えがあるなと思ってさ。君のお母さんになんだかんだとイタズラして、よく怒られてたなあ」

 ひとりで思い出し笑いをしていると、真夕の顔から怒りの色が消えた。

「……隼人兄ちゃん、お母さんのこと好きやったん?」

 思わぬ問いかけに、隼人は息を飲んだ。ごまかしなど一切効かないまっすぐな瞳が、隼人の冷え切ってしまった感情に熱を与えてくる。
 隼人は顔をなでると、ゆっくりと口を開いた。

「……うん。好きだったなあ」
「そしたら好き同士やん? なんで結婚せんかったん?」

 真夕はためらいなくそう口にする。耳の奥で懐かしくこだまする「好き同士」という子供世界の言葉が、蓋をしていた感情に揺さぶりをかける。

「……ずっと大切にするつもりだった。でも……俺が逃げちゃったんだ」
「なんで逃げたん?」

 真夕の追及は止まらない。どう答えるべきが、いまだに自分の中でも答えが出ていない。

「……本当のことを受け入れるのが怖くて」

 それが口にできる精一杯のことだった。くちびるは情けなく震えていた。真夕は首を傾げて何か言いたそうにしていたが、隼人はそれを拒んだ。



 十六年前の夏――隼人と綾女は高校一年生だった。東京の中学高校と進学した隼人は、夏休みのたびに実家に帰っていた。この頃には地元の同級生とわざわざ会う約束をしたりせず、休みのすべてを綾女との時間に費やした。

 二人の間で「付き合う」という約束事はしていなかったが、お互いを恋人だと認識していた。東京で勉強に励む間も、綾女が恋しくてたまらなかった。幼い頃から抱いていた家族のような親近感をこえて、二人は繋がってしまった。

 その年の秋、体育祭に学園祭に忙しくしている最中、綾女が妊娠したことを知った。電話をかけてきたのは隼人の母だった。綾女の母替わりだったこともあり、彼女の体調の異変に気付いてすぐさま産婦人科に連れて行ったらしい。今は七週目でつわりで苦しんでいる、ということを電話越しに聞いた。

 現実だとは思えなかった。電話口にいるのは母ではない誰かで、自分の未来を陥れようとしているのではないかと考えた。日常生活の遠い遠いところにある現実と、翌日に学園祭の打ち合わせをすることになっている現実とが、交じり合わなかった。
 電話口で呆然としていると、母が唐突にこう言った。

「中絶するけど、それでええんやね?」

 本当は前後に何か説明していたのかもしれないけれど、その言葉しか記憶に残っていない。目の前が真っ白になって、ついていたはずのテレビの音もかき消えて、母の声だけが頭の中で反響していた。

 どれくらい時間があったのか定かではないが、隼人はこっくりと頭を垂れた。母が何度も返事を催促してくるので「それでいい」と言った。ほかに何と返せばいいか、皆目見当もつかなかった。

 それから母は「いっぺん帰ってきて、綾女ちゃんと話しなさい」と言った。それに対して自分は「忙しいから無理」と答えた。電話口で母は怒っていた。情けないことを言ってないで男らしくちゃんと謝りなさいみたいなことを繰り返し言われた。
 今ならそれは当然のことだと思える。けれどあの時は、心臓が縮んだまま一生戻らないような気がした。綾女にかける言葉のひとつも思いつかなかった。

 ただ、逃げた。その年の瀬も、年始も、次の春も夏も冬も――綾女から逃げ続けた。



 それ以来、三十二になるまで一度も実家に帰らなかった。母が東京に来ることはあっても、隼人がこの土地を踏むことはなかった。子供を堕ろした綾女がどうやって生きてきたか、母が語る言葉にはすべて蓋をした。何度となく帰郷したくなることはあったが、この土地に自分が生きる場所はないのだからと諦めた。望んだ未来を失った状態で、ずっと生きてきた。

 母が病死して帰らざるを得なくなったとき、一番怖かったのは綾女に会うことだった。逃げた自分を許しているわけがない。けれど母の死を看取ってくれたこともあって葬式で顔を合わす覚悟はしなければならなかった。

 予想に反して、彼女は笑顔で迎えてくれた。不摂生な生活でやつれた自分の世話も焼いてくれた。信用ないのは当然のことなのに、娘を預けてくれた。

 彼女の心の奥に潜んでいる本当の感情と対峙すること――それが何より怖かった。

「お母さんも心配してるだろうし……帰ろうか」

 真夕の頭に手を乗せると、真夕は「兄ちゃんの怪我も心配やしね」と笑った。その無垢な笑顔に少し救われた気がして、隼人は携帯電話を取り出した。

 綾女も探している最中なのか応答しない。何度もかけなおしたが留守番電話に切り替わってしまった。真夕が見つかったことを吹き込んで、ため息をつく。

「一度家に戻るって行ってたから、俺たちも行こうか」

 隼人がそう言うと、真夕はリュックサックを背負って「こっち!」と先導してくれた。ときどきふりかえるその横顔に、幼い頃の綾女を思い出す。恋心を抱かなければ、今でも仲のいい幼なじみとして同じ土地で暮らせただろうか、と考えてしまう。

 以前の風景を思い出せないくらい、街並みは変わってしまった。空の色も違って見える。遊びなれた河はすっかり水量が減り、あの頃の面影はない。すぐ前を歩く真夕の存在こそが、綾女と元の関係に戻ることはできないと物語っていた。