影さえ消えたら 5.影消?
綾女と真夕が住む古い木造アパートは、隼人の実家から歩いて十分ほどのところにあった。
周囲の建物は取り壊されて空き地になったり新築の戸建てになったりしているのに、この二階建てのアパートだけが子供の頃と変わらない古さで取り残されている。管理人があまり手入れをしていないのか、古いモルタルの壁にはひびが走り、コンクリートの廊下はあちこちが崩れている。母子二人で暮らすにはあまりに寂しいところだと思った。
青いペンキがはげ落ちた階段を登って、真夕は二階にある扉に手をかけた。
「あれ、お母さんまだなんかなあ」
そう言いながら、何度もドアノブをひねる。リュックサックから紐のついた鍵を取り出し、慣れた手つきで鍵をさしこんだ。
「お母さーん、ただいまぁ」
狭い沓脱にスニーカーを脱ぎ捨てて、真夕が部屋に入っていく。一畳ほどの玄関のすぐ隣に、これまた小さなキッチンがある。ガラスの引き戸のむこうにダイニングがあり、ふすまの奥にはリビングがある。部屋はこれで全てだった。綾女の実家の方がよっぽど広いのに父親と一緒に住まないのは、何か訳があるのだろうなと思った。
「お母さん帰ってないみたい」
トイレの中までのぞいて真夕がそう言う。狭いリビングには真夕の学用品や綾女の鏡台が置かれていて、カーテンレールには洗濯物がかけられている。綾女も真夕もここで生活を送っているのだと思うと、ふっと気持ちがゆるんだ。その途端に腹の虫が鳴き声を上げる。
「……そういや朝から何も食べてないな」
財布もないし一度家に戻るか、と考えていると、真夕がぐいと腕を引いた。
「パンとコーヒーならあるよ。ちょっと待ってて」
そう言って隼人を座卓の前に座らせると、キッチンに飛びこんでいった。小さな背中に苦笑しながら部屋を見回していると、鏡台の上に置かれた写真が目に入った。
綾女が赤ん坊の真夕を抱いている。生後半年くらいだろうか。うしろに映るふすまの柄を見るかぎり、この部屋ではないらしい。微笑む綾女を撮ったのは別れた旦那だろうか、と見知らぬ人物に対して複雑な感情を抱いてしまう。
鏡台の上にノートが数冊置かれている。よくある大学ノートの表紙に「住所録」や「家計簿」などとタイトルがつけられている。
数字が苦手で大雑把な綾女が主婦らしく家計簿をつけているのかと思うと、微笑ましくなって何となくページを繰ってみた。つけ始めは今年の一月だ。最初の頃は品目も金額もきっちりと記入されているが、七月八月となると固定費以外は記入漏れが多く、集計もしていない。
思ったとおりだ、と笑いながらページをめくっていく。十二月までは枠が引かれているが、その先は白紙だった。
閉じようとしたとき、ある文字が目に飛びこんできて、心臓が動きを止めた。
大学ノートの線上に「桐生大輔」という名前がびっしりと書きこまれている。鉛筆で書かれたものもあれば、ペンで書かれたものもあり、ひとつずつ大きさや濃さが異なる。綾女の字には違いないが、字体から長い日数をかけて書き続けられたものだということがわかる。
しかもその上にはひとつずつ赤い「×」がつけられている。何で書いたのかわからないが、力のこもった「×」印に肌が粟立つのを感じる。
「なん……だよ。これ」
心臓が嫌な鼓動を打ち始める。生ぬるい汗がこめかみをつたってくる。
震える指先をこらえながら、ページをめくる。今度は「斉藤吉正」という無数の名が、何百もの赤い「×」で塗りつぶされている。消えた斉藤の親父の偶像が眼前にせまってくる。
次にくる名前を予測しながら、生唾を飲みこむ。
紙が破れそうなほどの筆圧で書かれたその裏には「牧琴菜」の名が並んでいた。前の二人と同様、開いたノートの端から端まで、その名の上には「×」が走っている。その上をすっと指でなぞると、血の色にも似たぬめった赤が指の腹に残った。
激しい憎悪を感じる「×」に思わず目を閉じる。指先からしみこんでくる震えが、全身に回って隼人の体を侵そうとする。
鏡の前におかれた口紅に目が留まった。キャップを抜いてノートに近づけてみる。どうやら「×」印はこの口紅で描かれたらしい。使用した跡があるが、綾女がこんな赤い口紅をつけているのを見たことがない。
背後で物音がする。真夕か、と思ってふりかえったその先には、綾女がいた。
作品名:影さえ消えたら 5.影消? 作家名:わたなべめぐみ