影さえ消えたら 5.影消?
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意識を取り戻すと、全身に激しい痛みを感じた。寝る前にはなかった擦り傷が体のあちこちにできている。肘からは血が出ている。周囲を見回すかぎり、隼人がいるのは物が山積する古い和室だ。枕元には携帯電話が置いてある。無事、元の時代に戻ってきたようだった。
やはりあの世界は現実の出来事で、怪我をすれば元の時代に戻ってもこうして血を流したままなのだ。よく死ななかったものだと恐怖を感じながら、携帯電話を手にして時間を確認する。
時刻は午前十一時を過ぎている。昨日、来ると約束していた真夕はどうしているだろう、と思いながら痛む体で立ち上がる。Tシャツの中をのぞきこむと痣があちこちにあった。どうやら額にも傷があるらしく、ぬぐった手の甲に血がついている。
居間はしんと静まり返っていた。聞こえてくるのはセミの鳴き声だけで、真夕の姿はどこにもない。朝の八時半には来ると言っていたのに、寄り道をしたとしても遅すぎる。
ふらつく頭で、そういえば琴菜の存在はどうなったのか、と思った。彼女の携帯番号はまだ聞いていない。気安く番号交換をして付きまとわれても困る、とどこかで考えていたことがこんな形で裏目に出るとは思わなかった。
真夕の名前を呼びながら庭に出てみる。宮原家の扉は相変わらず固く閉ざされたままだ。家の周りを少し歩いてみたが、小学生らしき姿も全くない。
町内を探そうと外に出る。太陽光線は皮膚を焦がすように暑いのに、悪い考えが脳を侵食して、歩くうちにますます肝が冷えていく。
――もしかして真夕まで消えた?
そう考えだすといてもたってもいられなくなり、隼人は家に戻った。手の震えをこらえながら携帯電話を操作する。
綾女の名はちゃんと残っている。祈るような気持ちで通話ボタンを押すと、しばらくして綾女の声が聞こえた。
「真夕ちゃんがまだうちに来てないんだ。今朝、どこまで送ってきたかな」
「ひとりで行けるからって言うから、うちから送り出したんよ。外で遊んでない?」
「町内を探してみたけど、見当たらないんだ。どこ行っちゃったんだろ」
「いっぺん家に戻ってみるわ。隼人は近くの公園とか探してくれる?」
娘の行方がわからないというのに、綾女の声は落ち着いていた。こんなことはよくあるのだろうか、と考えていると更に不安が募ってきた。「もしかしたら消えてしまったかも」という言葉が喉元まで出かかって、必死になって飲み込んだ。少なくとも綾女の記憶には真夕が残っている。隼人は「わかった」と返事をすると、通話を終了した。
真夕と入れ違いになることを考えて家の鍵は開けたままにして、靴を引っかけた。
全身に痛みはあったが、こらえて走りだした。傷口にさしこむ真夏の日差しが、これは現実だと告げていた。アスファルトの上を走る影さえ焦がしそうな勢いで、夏の空は熱を浴びせ続けてきた。
一時間ほど探したが、真夕の姿は見当たらなかった。
全身に汗が吹き出してくる。小さな児童公園のそばに立つ自動販売機を見ながら、財布を持ってこなかったことを悔やんだ。
朝から何も口にしていない。このままでは脱水症状を起こして倒れてしまう。少し休憩したら一度家に戻ろう、そう思って人気のない公園に足を踏み入れた。
鉄棒や滑り台は錆びていて年季が入っているが、校区外にあるこの場所で遊んだ記憶はない。夏の間は遊ぶ子供も少ないのか、雑草が青々と生い茂っている。大きな金木犀の木の下にベンチを見つけ、隼人は汗をぬぐいながら近づいていった。
大木のむこうに小さな女の子の姿があった。背をむけて座っていて、顔は見えない。もしかして、と思ってそっとのぞきこむと、水晶玉のような瞳と視線がかち合った。
「隼人……兄ちゃん」
そう言ってぽかんと口を開けたのは、やはり真夕だった。小さな膝の上に、これまた小さな弁当箱を乗せている。
「まったくもう……心配したよ」
全身から力が抜けるのを感じながら、隼人はそう言った。真夕の細い肩に手を乗せる。真夕は弁当箱のふたを閉めて歯噛みする。
「今日は朝からうちに来るって約束だったろ?」
隼人がゆっくり問いかけると、真夕は視線を彷徨わせた。手にしていた箸を握りしめ、うつむいたまま答えない。
仕方がないので、隼人は真夕の隣に腰かけた。ピンク色の水筒が目に入ると猛烈なのどの渇きを感じた。「一口だけもらってもいい?」と聞くと、真夕は目を丸くして「うん」と答えた。
付属のコップに麦茶をついで、喉に流しこむ。「あーうまい」と言ってベンチにもたれかかる。どろどろになっていた思考が、わずかだが薄まっていく。
「……なんで行かへんかったか、聞かへんの?」
隼人が何も言わずにいると、じれたように真夕がそう口にした。隼人は真夕の動向を盗み見しながら、素知らぬふりで空を見上げる。
「言いたくないことがあるなら、無理には聞かないよ」
そう答えると、真夕は拍子抜けした表情で、隼人を見た。黙って雲の流れを見ている間も、何度も真夕の視線を感じた。やっぱり何か言いたいことがあるのかな、と考えていると、真夕の指が額に触れた。
「……この傷どうしたん?」
そう言いながら、肘にも血の塊があることに気づいたらしい。まるで看護師のように腕に残る傷をチェックし始める。上着でも着てくるべきだったか、と考えながら、隠しようのない額の傷を触った。
「兄ちゃん鈍くさいから、こけちゃっただけだよ」
「……うちを探してるときに?」
そう来るとは思っていなかったので、隼人は返事に困ってしまった。
「いやーいつだったかな。覚えてないなあ」
「……ごめんなさい。勝手にこんなとこきて。だってうちのおるとこ、バレてしもたから」
そう言って真夕は瞳に涙を溜めた。早朝から変質者にでも付きまとわれたのか、それならうちに入った方が安全だろう、と次にかける言葉を考えていると、真夕は涙を落とした。
「隼人兄ちゃんちに入ろうとしたときに、峰くんに見つかってもうた。昨日はなんで学童にこんかったんや、ずるで休んだんか、この家に来てたんか、誰の家やって聞かれて……無視して家の中に入ろうとしたら、この家に来てるんやったら、明日迎えに来るからなって言うんや。そんなん勝手に決めんとってよって言うのに、学童で引き算教えたるから言うて、いっこも聞いてくれへん。そんなん、うちは頼んでないのに」
語るうちに真夕はどんどん早口になって、涙をこぼした。状況が見えてきた隼人は、しゃくりあげる真夕の背中をそっと撫でた。
「その峰くんって子、真夕ちゃんに、引き算もできないのかって、って言った子かな」
「そうや。いちいちうちのプリントのぞいて、どこが間違ってるとか言うんや。見んといてって言うても聞かへんし、勝手に消しゴム使うし、お弁当の時も勝手にうちの座るとこ決めるし」
真夕は怒り心頭のようだが、隼人はまるで自分の子供時代の話を聞いているようで、思わず吹き出してしまった。
「なんで笑うん?」
「いや……その峰くんって子さ、真夕ちゃんのことが好きなんじゃないかな」
作品名:影さえ消えたら 5.影消? 作家名:わたなべめぐみ