やさしいかいぶつ
3
ハナはそれから何回もこの花畑にきた。ガオガオはいつもハナの相手をした。
他愛のないおしゃべりをしたり、小川に遊びに行ったり、森の百合の花に触れたり。
「ガオガオ、どこにもいかないでね」
重い雲を見ながら、ハナは呟いた。霧のような雨が降っていた。でも風邪を引く心配なんてないことをハナは知っていた。
なんの心配も知らず、ガオガオの濡れた黒い毛皮を眺めていた。
「おれは、ここにいる」
そしてまた、ハナを抱きしめる。冷たくて、少し鳥肌が立ったけれどそんなことは気にしなくていい。
「なんでハナは傷だらけなんだ」
「知りたい?」
「・・・教えてくれないだろ」
「じゃあ、知らなくていいよね」
ハナは陽気に歌いだした。明るい歌声だった。口からメロディを奏でていくのを、ガオガオは呆然と見つめていた。
「それ、なんだ?」
ひどく驚いたようにガオガオは尋ねる。質問の意味がわからず、ハナは聞き返す。
「それ、お前、何しゃべってるんだ?」
このかいぶつは歌を知らないのだ。きっと、会話よりもずっと抑揚のあるその言葉の集まりは、あまりにもガオガオにとって珍しいものなのだろう。
自分が教えられることを見つけて、ハナは嬉しくなった。
「これはね、歌っていうんだよ」
「うた?」
ハナは歌った。ガオガオもそれに合わせる。教会で聖歌を歌う少年のように、透き通った声だった。
けれど、どうしてこんなに悲しく聞こえるのだろう。
あたしの悲しみを食べてるせいかな、と、ハナは思わずガオガオから離れてしまった。
「ね、悲しみって、おいしい?」
「ん、花弁よりはおいしくないかな」
「何が一番おいしいの?」
このかいぶつは本当に長い間じっくり考え(その間も大きな口からはひっきりなしに歌が漏れていたが)、やがて、答えた。
「ハナといる時間が、一番おいしい」
真面目な顔で言うものだから、照れくさくてしょうがなかった。
霧雨が二人を包む。あぁ、幸せだ。ずっと、ずっとここにいられたらいいのに。いつだってそう思って、必死にしがみつこうとするんだけど、強引に睡魔は、ハナを世界から引き離す。
「ねえ・・・」
ガオガオの姿がだんだん遠くなる。あ、また、眠らなきゃ・・・。
意識が途切れる瞬間、またガオガオが自分を強く抱き寄せてくれた気がした。悲しい、美しい歌声が耳の中をこだまする。
また会えるとわかっているから、悲しくないのか。悲しみを食べてもらっているから悲しくないのか。けれど、寂しい気持ちは悲しみがなくなったとしてもしっかりと胸に残った。
「雲って、おいしい?」
曇天を指して、ハナは言った。ガオガオは花弁をむっしゃむっしゃと食んでいる。
「なんかさ、雲ってふわふわしておいしそうだよね」
でも、あの雲は水っぽくてまずそうだなあ。ハナはのんきに思う。
「雲は、あまりすきじゃない」
「食べたことあるのー?」
少しからかってみた。いくらガオガオが大きくたって、さすがに雲までは届かないはずだ。
一方、ガオガオはむきになって言い返した。
「おれしか食べないから、おれしか知らない味だよ」
なにそれ。ずるい。ハナが唇をとがらせると、ガオガオは自慢げに口を開いた。
そして、口を大きく開いたまま空を仰ぎ、息を大きく吸い込んだ。分厚い雲が早送り再生のように動き、かいぶつの口へと流れ込んでいく。
まるで、世界そのものが吸い込まれるような気がした。
しかし実際にはそうならず、花弁を食べるときと同じようにむっしゃむっしゃとよく噛んで、露骨に不味そうな顔をして飲み込んだ。
「やっぱり花がすきなんだね」
そういって花を差し出すと、ハナの手からその花弁をほおばった。満ち足りた気持ちで、女の子は微笑む。
「ねえ、後何回あなたと会えるかな」
この独り言の意味を、ガオガオはわかっていない。おかしな顔で、ハナの顔を見つめている。
「ねえ、ガオガオはあたしのこと、すき?」
前にも問うた質問だった。あのとき、ガオガオは理解していなかった。けれども今は、あのときよりずっと真剣に考え込んでくれている。
「そんなに考えること?」
「すきって、なんだ」
「すきって、大切だってことだよ。一緒にいて嬉しくなることだよ」
「たいせつ?うれしい?」
「そうだよ」
「なぁ、ハナはどうしてそういうことを知ってるんだ」
みんな、いつか気づくことだよ。とハナは言いかけたが、その言い分はずるい気がした。
「じゃぁなんで、ガオガオはあたし『悲しみ』を食べるの?」
質問を質問で返すのも幾分かずるい気がしたが、話題を逸らすのには充分だ。
ガオガオは黙った。そしておずおずと恥ずかしそうに答えた。
「ハナが、悲しそうだから。」
ここにいるときは自分はこんなに幸せなのに。そんなに悲しそうに見えているのだろうか。
でも、このかいぶつが自分の悲しみを食べてくれているおかげで、ハナはここにいれるのだ。
あたしだけの、やさしいかいぶつ。愛しさに胸が詰まって、また抱きしめた。何回、こうしたことだろう。ガオガオも壊れないよう、つぶさないようそっと抱き返す。
幸せだ。こんなにも幸せな気持ち、きっとここでしか手に入らない。
しかし、残酷にも、睡魔は唐突にハナに襲いかかる。
いやだ。幸せな今は、眠りたくない。
「ハナ・・・?」
急に力の抜けたハナを、ガオガオは心配そうに見つめる。
「大丈夫、だから・・・」
立ってられないくらいの、強引な睡魔。ねえ、どうして、どうしてここにいてはいけないの?
「ガオガオ、あたし眠りたくない。ずっと、ずっとここにいたい」
「ハナはどこからきたんだ?」
重い頭を持ち上げると、今にも泣き出しそうな表情でガオガオが声を荒げている。こんな表情、今まで見たことが無かった。
「ハナはどこへ行くんだ、なぁ、どこに消えちゃうんだ・・・。なぁ、なんで、なんでいつも消えるんだ!?」
あぁ、視界がぼやける。頭がうまく働かない。唇すら重い。しがみついてないと、倒れてしまう。
「ハナ、行くな、どこにも行くな」
痛いほど強く、ガオガオが抱きしめてくる。だめだよ、そんなことしたらあたしつぶれちゃう。
自分だって行きたくない。あんな世界には戻りたくない。どうして?どうして眠らなくちゃいけないの・・・。
「なんでだよ!ハナ!!」
もう、限界だった。
完全に闇になる前に、ハナは一言だけ呟いた。本当に短くて小さな一言だったけれど、それは確かに声となり、空気を震わせた。
「夢、だから」
気づいたときには、ガオガオの腕の中に、ハナはいなかった。