影さえ消えたら 4.引金
仕事で疲れているだろうに、そう言って満面の笑みを見せる。何事もなければ、綾女の手料理をごちそうになれると素直に喜んだだろう。しかし今は、聞かなければならないことがある。
「あのさ、今朝、牧がうちに来てたんだけど……」
「牧? うちの知ってる人?」
やっぱりこの反応か、と隼人は落胆した。大輔のときと同じで、彼女の記憶から琴菜の存在が抜け落ちている。
「おまえ、牧琴菜、知らないのか……?」
あきらめきれず彼女の名を繰り返し言うと、綾女は重そうなスーパーの袋を運びながら返してきた。
「あー、小学校の同級生で牧さんっておったねえ。確か四年生のときに交通事故で亡くなった……兄弟の誰かがおばさんのお焼香にでも来てたん?」
そう言ってスーパーの袋をキッチンに置くと、仏壇の前に座った。隣に真夕も座らせて、線香に火をともす。
交通事故で亡くなったことになってるのか――そう考えながら、琴菜の言葉を思い出す。彼女は確かに事故にあっていて、自分にそっくりの人物に助けられたと言っていた――
隼人は、はっと息を飲んだ。消えなかった大輔と、消えた斉藤の親父の違い――
大輔の存在があやふやだったとき、過去に遡って屋根から落下した小さな大輔を助けた。あの時自分が助けなければ、彼の未来は消失していたのかもしれない。そして斉藤の親父は救いの手を差し伸べなかったから、そのまま死んでしまった。
過去の琴菜を事故から救ったのは、自分に似た誰かではなく、三十二歳の自分自身だった?
そこまで思考がめぐって、全身の毛が逆立つのを感じた。
「……それって何月だったとか、おぼえてるか?」
「うーんと……そういえば、神宮祭で神輿を引く練習するやん? そのときに牧さんがおらんかって、事故にあったとか聞いたような……」
「だとしたら、神宮祭の前日か……」
そうつぶやきながら、その当日の写真があったかどうか考える。過去に遡ったとしてもうまく事故現場に遭遇できるとも限らない。小学四年生の琴菜がどんな姿をしていたのかもおぼえていないのだ。救うにしても、いったいどうやってやれと――
握りこぶしでテーブルを叩くと、そばにきていた綾女が驚いたように身を引いた。
「……どないしたん?」
心配そうに顔をのぞきこんでくる。先ほどの真夕と同じ表情だ。さすが親子だな、と感心していると、少し心がゆるんだ。
「……何でもない。おまえには心配かけてばっかだな」
「隼人のためやったら何でもしたげるよ。困ったことあったら、いつでも言うてな」
何百回も聞いて、思春期の頃はうざったくさえ思えたその言葉が、今の隼人を慰めてくれる。
この場に真夕がいなければ、抱きしめていたかもしれない、と思いながら綾女を見つめていると、真夕が小さな体をすべりこませてきた。
「うちもおるよ。なんでも助けてあげるから」
まっすぐなその瞳は、幼いころの綾女と同じ水晶玉のように透き通っている。隼人は「ありがとう」とつぶやくと、真夕の頭をなでた。彼女は隼人を見上げながら、満足そうな笑顔を見せてくれた。
今すぐにでも琴菜が事故にあう直前の時代に行きたかったが、昼寝が長かったこともあって眠りが訪れそうにはなかった。綾女の食事の支度を手伝い、三人で花火をする。それから必ず、目的の時代へ行く――
遺品整理をするふりをしながら、目的の時代に近そうな写真を探した。働き者の母は、神宮祭の当日は町内会の手伝いに奔走して写真を撮るのを忘れてしまう。だからあの年は、前日の練習のときに写真を撮ったはずだった。黄ばんだアルバムを次々にめくっていく。
「あった……」
法被を着た隼人と綾女、それから近所の子供たちが写っている。たしかこの時、そそっかしい母は新しいフィルムを入れるのを忘れていて、車いすに乗った父に入れ替えてもらっていた。
そんなことを思い出すと同時に、どこか違和感もおぼえる。母に言われて車いすの父のうしろでポーズをとった記憶はあるのに、その写真がない。家族三人で撮った写真はどこに行ってしまったのだろう。
真夕に呼ばれたので、ポケットに写真を忍ばせる。何事もなかったように夕食の席に着く。
午後八時頃に彼女たちが自宅に戻ったので早々に風呂をすませ、布団に横になった。
けれど夜半を過ぎても眠りは訪れず、月明りをたよりにひとり写真を眺め続けた。
作品名:影さえ消えたら 4.引金 作家名:わたなべめぐみ