影さえ消えたら 4.引金
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まぶたの裏に光を感じて、隼人は目を覚ました。
遠くからヒグラシの鳴く音が聞こえる。真夏の西日がささくれた畳を焦がしている。
重い体を起こす。全身にびっしょりと汗をかいている。
ふすまのむこうからテレビの音が聞こえる。にじりよってそっとふすまを開けると、小さな女の子が背を向けてテレビアニメを見ていた。
ふりむいたのは真夕だった。無事、元の時代に戻れたらしい。眠る前に飲んでいた麦茶のグラスがちゃぶ台の上に乗ったままになっている。
「あ、目ぇ覚めたん?」
「俺……どれくらい寝てたのかな」
「うーんと、二時間くらい?」
そう言って古びたかけ時計を見上げる。もうすぐ午後五時になろうとしている。
「そうだ……斉藤の親父」
鉛のように重い体を無理やり動かして、縁側にはいずり出る。母がはいていたサンダルに足をひっかけ、垣根のむこうに首を伸ばす。
中年の女性が家から出てくる。枇杷を分けてくれた、あの女性だ。
耳の奥で嫌に響く心音を聞きながら、表札を確認する。
――井川
その二文字を見ているだけで、内臓が煮えたぎるように体が熱くなっていく。口の中はカラカラに乾ききって、生唾を飲みこむこともできない。
「戻って……ない?」
目を閉じて、もう一度表札を見た。「井川」のままだ。両隣の家には全く変化がなく、真夕が訝しげな顔をして隼人を見上げてくる。
「どないしたん……?」
「いや……ちょっと困ったことになったなと思ってさ……」
そう言いながら、小さい隼人の時代を思い出す。最後に斉藤の親父を見たのは、あの日の夜だった。表札は「斉藤」で、酔いつぶれた親父が家の前で眠りこけていた。
「もしかして……あのあと……死んだ?」
「……誰が死んだん?」
真夕に聞き返されて、思わず口をふさいだ。けれどその場を取り繕うほどの余裕もなく、隼人は玄関に回って外に飛び出した。
西日が不気味なほど井川家を赤く照らしている。綾女の父はまだ留守にしているようだ。どこか他に変化はないかと目を凝らしていると、井川家の右隣にある家から住人が姿を見せた。
隼人は藁にもすがる思いでその老人にかけよった。
「あの、すみません。お隣の井川さんっていつ頃からここに住まれてますか?」
八十を過ぎたその老人は顔を皺だらけにして目を細めると「なんや、丹羽のぼっちゃんかいな」とつぶやいた。
「いつからて、二十年くらい前とちゃうか」
「その前は、どなたが住んでいたんですか」
「どなたて、斉藤さんとこやんか。おぼえてへんのか?」
――斉藤。その二文字が、再び隼人の脳髄に突き刺さる。
「酔いつぶれて家の前で寝てしもて、次の日の朝には死んどったんや。夏の暑い日やったけど、もとからアル酎の気もあったしな。嫁さんの忠告も聞かんと毎晩飲み歩いとったから、自業自得っちゅうやつや。あんたんとこのお父さんが亡うなったんもそのちょっとあとやったしなあ、おぼえてへんでもしゃあないか」
老人が剥げた頭をなでながら遠い目をする。
父が亡くなる前の、夏の夜――生きている父と再会した、あの花火の夜に斉藤の親父が酔いつぶれているのを見た。迷いながらもそのまま放置してしまった。そして死んだのか――
自業自得――小さい綾女が呟いた言葉が、耳の奥で鳴り響いている。
斉藤の親父を恨んでいる人間は多くいた。酒癖が悪いだけでなく、借りた金を踏み倒したり、どこからか儲け話を持ってきてはかかわった人間に出資させたりしていた。何度となく綾女の父が巻きこまれて、そのたびに多額の借金を背負わされていたことは、ずいぶん後になってから母が教えてくれた。
死んで当然だ、天罰だ、という者も少なからずいるだろう。あの場で過去に遡った自分が助けたからといって、何のいいこともなかったかもしれない。
――けれど、それを決めるのは自分じゃない。父は「米一粒くらいのいいところもある」と言っていた。共に暮らしている家族もいた。死んでいい人間なんて、いるはずがない。
激しい頭痛を感じながら老人に礼を告げると、「あんたも気ぃ落としなや」と肩を叩かれた。少し考えて、亡くした母のことを言っていると気づいた。
目眩をこらえながら台所に入って水を飲む。強烈な喉の渇きをおさめて、自分はあの時どうすべきだったのかを考える。斉藤家の門を叩き、あの口うるさい女性にどやされ、酒臭い斉藤の親父を家の中に担ぎこむべきだったのか――
ふとテーブルを見て、違和感を覚えた。流し台の横には真夕が洗った弁当箱がおかれている。テーブルの上はすっきりと片付いている。
琴菜が持ってきたタルトの箱がない――
また胸のあたりがざわつき始め、あわててタルトの箱を探す。炊飯器が置いてあるカップボードや、戸棚の中にも入っていない。真夕が食べたのかと思いゴミ箱をあさったが、それらしき空き箱は見当たらない。そもそもタルトは六個もあったのだ。真夕ひとりで食べられるはずがない。真夕は琴菜のことを「きらい」だと言っていた。庭にでも放り出したのだろうか。
思いつくかぎりのところを探してみるが、どこにも見つからない。隼人の不審な行動を真夕がじっと見つめてくる。本人に聞く方がよっぽど早い、とようやく気付いて隼人は真夕に声をかけた。
「あのさ、キッチンにあったタルトの箱、どこに置いたっけ?」
「タルト?」
真夕は不思議そうな顔をして首を傾げる。母の遺骨を置いた仏壇のお供え物を見始めたので、隼人は嫌な予感を抱きながらもう一度言った。
「牧琴菜っていうお姉さんが持ってきてくれたタルトだよ。お昼前に来ただろ?」
「……うち、そんな人知らんよ」
母親譲りのイントネーションでそう言うのを聞いて、隼人はまただ、と思った。大輔の電話番号を聞こうとしたときの、綾女と同じ反応――
隼人は生唾を飲みこみ、もうひと押ししてみようと思った。
「真夕ちゃん、あの女の人のこと、きらいだって言ってただろ? 別にごまかさなくていいんだよ。あの人が来たこと、お母さんには内緒にしとくからさ」
「……なんのことかわからへん。朝、誰か来てたん?」
真夕は一層首をかしげる。とても嘘をついているようには見えない。
――もしかして、斉藤の親父と同じように、琴菜の存在まで消えてしまった?
そう考えだすと、きりきりと胃が痛むのを感じた。消えたように思ったけれど存在した大輔、消えたまま戻らない斉藤の親父、牧琴菜はどうなってしまうのだろう――
真夕を見つめたまま呆然としていると、インターフォンが鳴った。玄関先から自転車を止める音が聞こえる。
「あっお母さん、帰ってきた」
そう言うなり真夕は玄関に飛び出していった。引き戸を開けると、息を切らした綾女がスーパーの袋を持って立っていた。
「隼人、ほんまありがとう。今夜はここで晩御飯作るしな。一緒に食べよな」
作品名:影さえ消えたら 4.引金 作家名:わたなべめぐみ