遙かなる流れ
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私達家族は十六日の夜に南名好の港を出港しました。目標はとりあえあず、隣の港の本斗です。
父によると、もう五十度線をソ連軍は突破して南下して来ているそうです。それに、直ぐ傍までソ連の軍艦も近づいて来ているみたいです。
私達の船はなるべく沖に出ない様にしていたので、隣町なのに時間が掛かります。夜半になりやっと到着しました。
本斗の港には正式な引き上げ船が泊まっていました。父は私達に
「お前達はここであの引き上げ船に乗り換えなさい。引き上げ船ならソ連の軍艦も狙わないだろうからな」
「お父さんはどうするのですか?」
「わたしなら大丈夫だ。暫くしたら街の皆と一緒に引き上げるから」
「そんな、だって……」
私の他に妹も弟も納得していません。
「お父さんは海運会社の責任者だ。責任者はそれなりの仕事が待ってるんだ。大丈夫だ、必ず帰るから心配するな。それより内地に帰ったら、青森の弘前のおばあさんの所へ行きなさい。以前に手紙を出して頼んであるから」
私達と父は結局ここで別れる事になりました。引き上げ船に乗りこむ姿を父が最後まで見ていました。
やがて十七日のお昼になると「ボー」っと汽笛を鳴らして船は満員の人を載せて港を離れて行きました。私は父が最後まで見送ってくれた姿を何時までも甲板で見ていました。
やがて船は小樽の港に着きます。降りてくる人、人、人の山です。それに他の港からの引き上げ船も次々と到着します。
私と母は弟と妹を連れて、列車に乗り込み青森を目指します。幸い、青函連絡船も内地の鉄道も動いていましたので私達は三日ほどで青森の弘前の郊外の祖母の家に着く事が出来ました。
でも、歓迎してくれたのは七十になる祖母だけで、あとの従兄弟や伯父叔母は冷たい視線を浴びせられました。歓迎されざる者だったのです。
私達には庭先の物置があてがわれました。朝から弟や妹と物置の掃除をします。そうしないと満足に寝る事も出来ません。
母は近所の農家に食料を仕入れに出かけて行きました。暫くすると母は両手に一杯の芋などを持って帰ってきました。
後から判ったのですが、母は家をでる時に大きな袋一杯の木綿針を持って来ていたのです。その針が物を交換して貰うのに役立ったそうです。私達はその御蔭で飢えなくて済みました。
それからの毎日は本当に生きる為の生活でした。身内からもよそ者扱いされ、家族だけが信用出来る有様でした。この時
「もう少しで父が帰って来る」
と信じていなければ、どうなっていたか判りません。結果から言うと父が帰ってきたのは九月も十日を過ぎた頃でした。
帰って来た父は酷く痩せていて、ここまで辿り着けたのが信じられないくらいでした。でも家族が再び揃ったので嬉しさは格別でした。あまり、父に懐いていない上の弟も涙ぐんでいました。
やがて落ち着くと父は恐ろしい事を私達には話してくれました。
私達の乗った引き上げ船が出た次の日にはもうソ連の軍艦が真岡にやって来たそうです。そして引き上げ船を待っていた五百人の人を艦砲射撃で皆殺しにしたそうです。
これは後に同級生の芳子さんも私に語ってくれました。芳子さんは、集まる場所に遅れてしまったので、急いで行こうとしたら射撃が始まったので、急いで防空壕に隠れたそうです。
暫くして射撃が収まった頃にソ連兵がやってきて、連れだされたそうです。
「自分ももう終わりだ」
と覚悟を決めたそうですが、生き残った住民と一緒に、その亡くなった五百名の死体を整理させらたそうです。最後の方はもう腐り始めていてとても嫌な匂いがしたそうです。
ソ連兵は父の居る所にもやって来たそうですが、口々に何か言っているので、良く聞いてみたら「ウオッチ、ウオッチ」と言ってるのに気がついたそうです。
ですので、腕時計から目覚まし時計やら時計と言う時計全てかき集めて渡すと大人しく帰って行ったそうです。
また、父は残った人の中では支配階級に当たるので、たまに将校から食事に呼ばれたそうです。ロシア語がいくいらか判る父は向こうのお気に入りな一人だった様です。
父達の決行は二百十日の晩に決まりました。本斗の残った人々は皆連絡を取り合い、父が隠していた五百トン余りの石炭運搬船で夜半に出る計画を建てたそうです。その頃のこの辺りは河が入り組んでいたので、船を隠すのには好都合だったそうです。
その日がやって来ましたが、この日は海は大荒れで、上手く出港出来ても沖に出られるか不安だったそうです。
しかし、ナギの日に出港してソ連の軍艦に見つかれば撃沈されます。現に正式な引き上げ船がソ連の軍艦の停戦命令を聞かなかったばかりに攻撃され沈没してしまったそうです。ですので返って好都合なのですが、上手く船を操縦出来るかが不安なのです。
深夜になり各地から人が船を隠していた河の河口に集まります。父の合図で偽装が解かれ、人々が乗り込みます。
エンジンが掛かり船を出港させます。沖に出ると波が荒く船を上手く操縦出来ません。仕方ないので父が代わりに操縦します。
大波が襲い船は木の葉の様に波に揉まれます。しかし、ソ連もこんな嵐の晩に船を出す者はいないと思い無警戒だったそうです。
船の操縦は決死で楽ではありませんでしたが、必死でした。漁船に毛が生えた程度の大きさの船ですが今はこれだけが命の綱です。
やがて、何とか利尻島に辿り着き、父は役場に駆け込み訳を言って保護して貰ったそうで、皆は引き上げ証明書を貰って内地に散っていったそうです。
まさに父は映画顔負けの行動でした。