遙かなる流れ
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父は落ち着くと精力的に出かけて行きました。何処へ行くのかは教えては貰えませんでしたが、私にはここでは無く、きちんと住める場所を探しているのだろうと云う想像はつきました。
十月になって少し経った頃でした。夕食の時に父は皆を前にして
「家を建てる土地が見つかった。青森市内だ。いい場所だぞ。近くに秋谷さんの夫婦も住んでいる」
秋谷さんというのは父の妹夫婦のことです。
「じゃあ長島?」
「ああ、そうだ。あそこに大きな布団屋さんがあったろう? あそこが焼け出されてな。もう田舎に引っ込んで商売はしない、というから土地を譲って貰う約束をした」
私は思わず「お金どうしたの?」そう訊いて仕舞いました。
「金か? ちゃんと家から持って来た。だから遅くなったんだ」
父はその時は詳しく言いませんでしたが、後に病床で私に言ったのは、船に村の残っている人を皆載せて港を出たのですが、北海道では荷物の検査があるかも知れない、というので一人で大金を持ってるのは怪しまれるので、小分けにして乗っていた人々に
「向こうへ着いたら半分返してくれれば良いから」
と言って預けたそうです。村の人々は父の事を良く知っていたので大体四割は帰って来たそうです。村の方々も一文無しより遥かに良かったので大体上手く行ったそうです。全く父の考える事は私には想像もつきません。
青森市は戦争で米軍の空襲にやられ、全てが灰塵となって仕舞いました。でも周辺の街は無事だったので、今は建設ラッシュが始まっているそうです。
「実はなもう大工も頼んで来た」
父はちょっとだけ得意そうに言うのでした。
恐ろしい程の速さですが、十一月の始めには小さいながらも親子が住める家が出来ていました。
私達家族は、この親戚に別れを告げて青森へ引っ越して行きました。最もろくな荷物もありません。
その家に着いてみると、なるほど、本当に住むだけの家でした。でも贅沢は言っていられません。玄関に台所と六畳、四畳半の間取りの家でした。
父の買った土地の半分も使っていませんでした。後にこの土地の半分に商店に使える店舗形式の家を立てて、賃貸しをする事になります。
目の前には長島小学校が焼け残っていました。私たちはここでこれから暮らす事になりました。
年を越した頃、父が女学校への編入の話を持って来てくれました。青森市の郊外にある私立の女学校です。
私の真岡高女の生徒手帳を確認するだけで編入させてくれました。程度は推して知るべしですが……兎に角4月から一年間通う事になったのです。
弟や妹も目の前の長島小学校へ通い出しました。こうして、私たちは以前の生活を戻して行ったのです。
父は家を立てて残っていたお金で商売を色々と始めました。その中には「興信所」なんてのもありました。なんでそんなのを開業したのか訊きましたら
「仕入れの資本が要らないから」
という事でした。でもこの商売が上手く行ったのかは私には借りません。
学校の授業は恐ろしく詰まりませんでした。公立と私立の差はこんなにも違うのかと思ったものでした。
それでも気の良い子ばかりで、その点では真岡高女よりマシでした。真岡時代は結構神経を使ったものでした。
皆、学校で一〜二番を取っていた娘ばかりでしたから、戦争が無ければ都会に出て女子大まで行きたいと思う様な娘ばかりだったからです。その点この学校にはそんな事を思う娘はいません。皆、今を必死に生きています。私は忘れていた事を思い出した様な気がしました。
女学校を卒業すると私は洋裁の学校に進みました。裁縫が得意だった私は、早く父の手助けをしたかったのです。
実はこの頃、父に今で言うと愛人が出来、母との関係が怪しくなって来ていました。一触即発だったのです。母も言いたい事を我慢しているのが良く判りました。
父は元々女好きで、樺太時代も常に愛人が居たそうです。それなので母も堪忍袋の尾が切れたのかも知れません。
私が一年制の洋裁の学校を出る頃に大げんかをして家を飛び出して仕舞いました。母は酸ヶ湯温泉で仲居として働き出して仕舞いました。
私は父をなじりましたが、事遅しです。その日から私が母の役割を兼ねる様になったのです。