遙かなる流れ
12
産後ある程度の日数が過ぎると日常の生活に戻ります。生まれた息子の名前を「新太」とつけました。
「この子はあらたにこの家を再興する人間になるように」
と言う意味でお祖母さんがつけてくれました。でも私は結核が進んで来てしまって、夕方になると熱が出る始末です。
それでも休む事は許されないので、無理をしてでも働きます。お祖母さんが心配をしてくれますが、休む事は許されません。そんな様子を見てお祖母さんは自分で飼っている鶏の卵を私にくれて、呑ませてくれます。涙が出る程有難いです。
「母ちゃんは病気で寝付いた事が無いから病人の辛さが判らないんだよ」
そう言って慰めてくれます。夫は昼間は家にいないので、事情が良く判っていません。最も、判っていても、親には逆らえない人なので、期待は出来ません。それでも私は、体をだましだまし、暮らして長男が生まれてから一年が過ぎようとしていました。
姑には「ウドの大木」と罵られていましたが、私は開き直って言い返します
「戦後随分景気の良い時もあったそうですが、蓄財していなかったから破産寸前なんですよね。お母さんは経営者としてどうかと思います」
それが気に喰わないのでしょう。益々私に辛く当ります。私が女学校を出ているのも背が高いのも何もかも気に喰わないのです。
後にこの人は孫にまで「お前なんか生まれて来なければよかったんだ」と言い放ったのです。
台風が段々近づいて来ます。私はラジオの放送を夫と聴いていました。もうすぐ新太のお誕生日がやってきます。もう雨が一週間も降り続いています。夫が
「このままならまた、大水(おおみず)になるな」
そう呟きます。
「大水ってなんですか?」
そう訊くと夫は
「洪水だよ。今度は何処の堤防がきれるか……」
そう言って説明してくれました。このへんは低地なので、雨が続いたりするとすぐに床下浸水ぐらいにはなるのだそうです。ですからこの辺の旧家には天井裏に船が隠してあり、イザと言う時はそれに乗って逃げるのです。当然この家にもあります。
台風は九月二十四日には本州に近づき、大量の雨を降らせます。二十五日になり中川が決壊しそうだと連絡が入ります。
私はお祖母さんと新太を抱えてお座敷でも特に高い場所にある「高山」と言う所に非難します。夫や兄弟は母屋の畳をあげて、家財を天井裏に避難させます。そして船を降ろして洪水対策をします。そんな時でした、「青戸の中川が決壊した」との知らせが地元の消防団の人から知らされます。
それから幾らもしないうちに水がやって来ました。あっと言う間に何もかもが水に呑まれて行きます。私は初めての事なので、新太を抱きながら震えていました。
結局水は一週間も引きませんでした。それでもこの辺の人は慣れていると見えて、何事も無く日常生活に戻ります。それは、全く違う世界から嫁いで来た私には想像を超える事でした。
そして私にも以前の日々がやって来ます。体は一進一退といった処でしょうか、相変わらず夕方になると熱が出ます。そんな繰り返しで日々が過ぎて行きました。そして、事態はとうとう待った無しの状態になってしまいました。融資をしてくれる所がなくなってしまったのです。
そんな時に、姑は駄目もとで地元の都会議員に都立の公園として買い上げてくれないか、相談に行ったのです。
初めは無謀だと思いましたが、紆余曲折がありましたが、格安ですが都が買い上げてくれる事になりました。
しかも、今までとは違いますが都の施設として料理を提供しても良い、と言う事になりました。嫁ぎ先の庭が公園としてデビューする事になったのです。
でも、あまりにも買収額が安いので、そのお金を全て返却しても、借金は半分程度は残って仕舞いました。
都の課長さんでさえ「こんな安い値段じゃバカらしいよ」と言って考え直す様に言ったくらいでした。
私はこの時、姑は経済感覚が可笑しい人なのだと判りました。この人にとっては金額では無く、先祖代々のこの庭を保存する事が大事だったのです。
この庭から少し離れた場所に若干の土地がありましたので、座敷で使っていた建物をそこに移して、あらたな家としました。
そして引っ越しが終わった頃からお祖母さんが寝付いてしまったのです。最初は風邪を引いたかなお様でしたが、中々治らず重くなるばかりでした。そして昭和三十五年三月にとうとう帰らぬ人となりました。私にとっては大恩ある人で新太を良くかわいがってくれました。
お祖母さんが亡くなったので気落ちしたせいではありませんが私の病も段々ひどくなり、とうとう入院となって仕舞いました。
尾久にある「女子医大病院」に入院となってしまったのです。可愛い息子の新太とも別れわかれになりました。私は幼い我が子が母親無しでちゃんと育つかが心配でした。息子の事を想い毎日鶴を折ります。そしてそれをお見舞いに来た時に新太に見せてあげるのです。
その時の息子の喜びようはありません。私にとってはそれが薬より効いたかも知れません
貧血がひどいと言うので輸血を受けたのですが、これによって結核の薬も効き始め、一時は随分良くなりました。
そこで退院となったのですが、私は「血清肝炎」にかかってしまったのです。とにかくだるくて、体が動きません。日常の生活も出来ない有り様なのです。姑はそんな時でも「ウドの大木」と私を罵ります。
おまけに結核も悪くなり、私は一年もたたない内に再入院となってしまいました。夫は、「奥さんは覚悟をしていて下さい」
と言われたそうです。見舞いに来た姑は「死人の匂いがする」と言って二度とは来ませんでした。
そういう人とは思っていましたが、本人の前で言う言葉では無いと思いました。もう息子とも会えないと思うと毎日が張り合いが無くなります。
「もうどうでもいいや」と思った事も一度や二度ではありませんでした。私の傍に確実に死神がやって来たのを感じていました。