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遙かなる流れ

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東京に出て来て、一番驚いたのは蚊の多さでした。特に私が嫁いだ場所は「文化都市」と標榜していましたが、その実は「ぶう〜ん蚊都市」だと揶揄されているほど蚊が多かったのです。
 私はそれまでろくに蚊に刺された事等ありませんでした。ですので、足などは幾つも刺されてそこが化膿して、何倍も腫れて膨らんでしまいました。
「凄いな」
 そう夫の哲夫さんは言いましたが、近所の宮田さんというこの家の今で言うホームドクターに見て貰いましたが、化膿止めと虫さされの軟膏をくれる以外は処置の仕様がありませんでした。それはそうです。蚊に刺されただけなのでした。でも宮田先生は私に大事な事を言いました。
「若奥さん、貴方、結核に感染していますね。今は大した事は無いが、気を付けた方が良い。
栄養を取って、睡眠を充分に取る事が大事ですよ」
 そう言ってくれましたが、それは無理と言うものでした。
 朝の5時に起きて、朝ご飯の支度をして、夫や夫の兄弟を起こし、学校へ行く者はその世話をし、布団を片付け、部屋の掃除をします。その間に洗濯に取り掛かります。
この頃は手で洗っていましたから、物凄い量なので早くから掛からないと夕方まで乾かないのです。その合間にお祖母さんを起こします。お祖母さんは哲夫さんのお母さんの母です。この人には私は大変可愛がって貰いました。孫の嫁はやはり可愛いのでしょうか……
 夫の母親は普通と違っていて、およそ子供の事は全く構いません。それは、後で判りましたが、この人は子供を産んで産みっぱなしだったそうなのです。
 お乳はあげましたがそれ以外の世話はお祖母さんが面倒を見たそうです。ですので、夫を始め兄弟は皆母親よりお祖母さんに懐いていたのです。姑の彼女にとって可愛いいのは長女で末っ子だけだったようです。
 兎に角、やる事が一杯あるのです。一息入れられるのがもう昼前です。お祖母さんとやっとお茶を飲んでいると、今度は玄関に借金取りがやってきます。姑と夫は金策に出かけています。
ですので、居ない旨を伝えると、暫く玄関先に陣取り、嫌がらせや悪口雑言を私に浴びせるのです。私としても初めてでした。子供の頃からお金には余り困っていなかったからです。
 暫く我慢して聞いているとやっと帰ります。それを、隠れて見ていた夫のすぐ下の弟がやって来ていて
「姉さんは凄いねえ〜女の癖にああ言う事を言うんだ!」
 とニヤニヤ笑いながら言うのです。私は生涯、この弟だけは好きになれませんでした。夫が陽なら完全な陰の人だったのです。
 朝から晩まで働く日々が続きます。夜は料亭の手伝いもさせられました。勿論無給です。姑の口癖は
「嫁には給料を払わなくてもいいから、こき使える」
 でした。事ある毎にそう耳元で言われました。
 あまりの事に料亭の仲居さんたちが、自分が貰った寸志を分けてくれる事もありました。彼女達だって、苦しいハズなのにです。そんな私でしたが、喜びもありました。
 年が明けても私に月のものが来なかったのです。私は時間を拵えて、隣街にある日赤産院の門を叩きました。
「二ヶ月を過ぎた頃です。予定日は九月二十五日ですね。おめでとうございます」
 そうです、私は子供を身ごもったのです。

 でもそれで大事にされる訳ではありませんでした。と言うのも姑は千人に一人と言うお産が軽い体質だったのです。
 ですから、子供を生むなんて言うのは何とも思わなかったのです。おまけに、ろくに子育もしないのですから、何人でも産めるというものです。ですからすぐに
「それぐらいでだらしない」
 と言われてしまいました。お祖母さんは
「ミヨは病気した事も無いから人の苦労も弱みも判らない人間なんだ。そう育ててしまったのも私が悪かったんだがね」
 そう言っていました。そうです姑は家つき娘だったのです。生まれた時から全ての財産は自分のもの、と言う観念で育ったのです。この性格は亡くなるまで治りませんでした。
 それでも、ご飯にお新香と味噌汁と言う献立からは抜け出し、お腹の子供の為と言ってお祖母さんは私に魚などを食べさしてくれました。
 料亭をやってるのに、ホント普段の献立は質素と言うより貧しいものでした。夕飯のおかず代として百円貰って買い物に行きます。そのお金で家族七人と料亭の人たちの分も買うのです。まあこの頃の百円は今の千円より価値はありましたが……

 それでもお腹の子は順調に育って行きます。夏前にはお腹を蹴って、私が座って痛みを我慢する事もありました。もこの時、結核が私の体を確実に蝕んでいたのです。
 予定日に入った深夜、破水が来ました。夫は作業用のトラックで私を日赤産院まで運んでくれます。
そして難産の末に予定通り九月二十五日の午後二時十五分に男の子が生まれました。でも私は僅かに顔を見られただけでした。
 結核が危険な状態にまでなっていたのです。私は自分の子を、初めての子をろくに顔も見ないうちに隔離されてしまいました。
 そして母乳にも菌が検出された、と言う事から、私は自分の子にお乳を与える事も許され無かったのです。
 充分に張った私のお乳はその役目を果たす事無く、両方の胸に氷を乗せられ一晩でしぼんでしまいました。
 私は永遠に我が子にお乳を与える事が出来なくなったのです。母として私は我が子を胸に抱く事も許され無かったのです。
 私はこの時自分の運命の寂しさに戸惑うばかりでした。私が我が子を抱けたのは翌日でしかもマスクを掛けて、白衣を着させられました。それでも、私は幸せでした。自分の子がこんなにも愛しいとは……
 こればかりは、経験者で無いと判らないと思います。そして、この時ばかりは家族皆が祝ってくれたのです。
 でも私の結核は確実に最悪の方向に向かって行ったのです。

作品名:遙かなる流れ 作家名:まんぼう