遙かなる流れ
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その後、哲夫さんの元へ嫁ぐと決めた私の所に青森の秋谷の叔母から
「もう少し冷静になって考える様に」
との手紙が届きました。でも私は決意を変えるつもりはありませんでした。正直言って、もう私には帰るべき場所も無くなりつつあります。青森に帰れば妹の結婚の話の障害になります。大学生の弟も「俺一人だったら生活には困らない」と言っていました。
ですので、私にはこの縁談が、父がもたらしてくれた様な気がしていたのです。
哲夫さんの元に嫁げば、千住のお墓もすぐですし、五反野の叔父の所にも近いのです。何かあった場合にすぐに相談に行けます。(後にそれは真実となって仕舞います)ですので、変えるつもりはありませんでした。
それからも、悪い話は私の耳に入ります。
「山の様な借金」「古い家なので格式だけが高い」「兄弟が大勢居るので小姑が大変」数えればきりがありませんでした。
今、思い返しますと、何故、あの時そう意固地になってまで、自分を貫こうとしたのかは謎なのです。でも、哲夫さん以外の人が自分の夫になっていたら……その様な想像も出来ない私でしした。
少し経つと、諦めたのか、青森から私の荷物が届きました。これが嫁入り道具になります。
叔父が「お祝いに」と銀座のデパートで流行のワンピースを買ってくれました。一緒に行った哲夫さんも
「良く似合ってるよ」と言ってくれました。
何回か繁太さんと逢っていると、彼は嫁いでから私が戸惑わない様に、色々な事を言ってくれました。曰く、御義母さんはとても気が強く外面は良いけど、内面はそうでもない事や、自分たち兄弟は祖母に育てられた事等、色々な事を教えてくれました。
十月の良き日に私は新田家へ嫁ぎました。家の料亭の一番大きなお座敷で私達の披露宴がささやかに開かれました。
哲夫さんは黒紋付に羽織袴で私は花柄の訪問着で頭に着物の柄と同じ花の髪飾りをしました。近所の美容室の方が出張して着付けと頭を拵えてくれました。三三九度をして、私達は人前で夫婦の誓いを立てたのです。
その晩は初夜になりますが、当然ながら私は経験がありません。只、体を硬くしていると、哲夫さんは優しくしてくれました。そうでしょう、彼は経験豊富で、後から判ったのですが、玄人相手に相当遊んだそうです。
私にとって、何もかも初めての晩が過ぎました。正直何かが股間に挟まってる感覚以外はまともに体が動きました。
朝、起きると私は台所へ行って、お米を研ごうとしましたが、何処にもお米が無いのです。うろたえた私は起きだした夫へ聞きました。すると
「ああ、無いのか、ちょっと待っていなさい」
そう言うと何処かへ消えて、暫くしてお米を持って来ました。
「今朝のと処はこれで我慢して」
そう言って私に渡してくれました。私はそのお米を焚いて、家の中を探して、味噌汁を作ったのです。
母屋と呼ばれる藁葺の大きな家には、私と哲夫さん以外に、御義母さん、お祖母さん、それから哲夫さんの兄弟、弟が二人と妹が一人いました。
哲夫さんのすぐ下の弟はもう結婚して別のに世帯を持っていました。哲夫さんの家族とは、婚礼の前に紹介して貰い、既に顔を合わせています。
男二人の上の方は、隣町にあるモーターの会社に勤めています。下の方は某デパートの配送に採用され働き初めた処です。一番下の義妹は小学六年生でした。
それでも披露宴から三日間は離れで二人だけ寝起きをさせてくれました。只、その次の日からは、お客様扱いは無くなり、家の戦力としての嫁としての生活が始まったのです。
そう、この家は、料理屋さんをやっていても、大きな庭を持っていて、家の構造は昔の農家そのものだったのです。
私は”農家の嫁”として朝から晩まで馬車馬のごとく働く事になるのです。その為に体を壊し、死線を彷徨うとはこの時は思いもしませんでした。でも自分で選んだ道です。私は耐えぬく覚悟を決めたのです。