Libera me
相手は認知症を患った老人だ。気を病むことではない。
だが、夜中に私の部屋に立入っているのだから。
そしてなにより気色の悪い濁声で品無く笑っているのは気持ちが悪い。
眼を閉じられればそれはそれで済むことかもしれない。
だが、私は瞼を閉じることすらできないのだから。
「今夜の夜勤はあの介護主任だ・・アイツは11時の巡回が過ぎればとっとと寝ちまう。
明け方早めに起きてバタバタ帳尻を合わせるようにオムツを替えて回るんだ。
だから今頃大いびきかいて寝ているさぁ。
あの堅物の中年男ならこうはいかないがなぁ・・更年期の手抜きの介護主任なら
コッチの思う壺さね。
ゴリラ女がはしゃぎ回りでもしなければ。
ナースコール押しても気がつかないだろ。
なぁ、あんたぁ、ホントは、わかってるんだろ、え？」
キヨコは私の左足をつねっているようだ。
様子がおかしい。
暗闇に浮かび上がるキヨコの顔・・そして異様に光る眼が。
明らかに私に危害を加えようとしている目つきだ。
「まだまだ若いくせにさぁ、こんなところで寝ててよ、いい御身分だぁょ。
なぁ、あんたぁ、ホントはわかってるんだろ？
私の娘はさぁ、よくできた娘さぁ・・。
ほんの子供の頃から、頭も良くて、器量も良くてさ。
だからわたしもせっせと働いてさ、女子大に通わせてさ。
それだけじゃないさ、大学院まで出さしてさ。
学校の先生になって。
さすがにあの子だ、いい先生になったょ。
生徒たちにも人気があってさ。
ぁぁ学校の先生としてだけじゃなくて、茶道部の先生として・・
あぁあのこは裏千家の先生の資格も持っていたからね。
だからウチにも茶室を作ってさ。
ちゃんと着物も着てさお茶会を家で開いたモノさぁ。」
認知症の老人の昔話を強制的に聞かされるのか、と思うとそれだけで癖癖とした。
「へへへ。
そのこがさ。
結婚してさ、幸せな結婚生活を送ったよ。
息子も出来て、娘も出来て。
孫たちもそりゃぁいい子に育った。
さすがにさぁ、学校の先生の子供だものね、頭が悪いわきゃないさね。
へへへ。
子どもが生まれてから先生を辞めてしまってね。
子どもたちの教育に専念したんだからさ、たいしたもんさ。
旦那ってのも世間が落ちぶれちまっても稼ぎが良くてねぇ。
大きな家を買ったんだ。勿論茶室も作ったし。
だがよ、へへへ。
わからないもんだよなぁ世の中ってのは。」
「お兄ちゃんはグレちまって頭の毛を真っ赤に染めてさ。
煙草は吸うわ、シンナーを吸うわ、へんなドラッグは吸うわ。
手も付けられないわな。へへへ。
妹は妹で家出しちまってさ。へへへ。
あのこはあのこで、朝は早くから駅前の蕎麦屋で働いてさ。
昼間は工事現場で交通整理やってさ・・。
夜は夜で水商売・・とにかく働きづめでさ。
母親のわたしのことなんてお構いなしさ。」
あぁ、転落の人生か、よくあることさ。
こうしてあんたの話を聞かされているこの私もこんなところにまで転落している！
「水商売ってのがさ。スナックかなにかで働いているのか、と思っていたんだ。
ところがよ、私の娘はソープランドで働いていたんだ。
カラダ売って、子どもたちを食わせてたんだょ。
あのこがさ。
なんでそんなめに合わなきゃならないんだぃ。
そりゃ妹もさ、そんなこと知れば微妙な年頃だものね。
まして大学受験に失敗したお兄ちゃんが暴力振るうようになればさ。
家に居られないさ・・家？
へへへ。
家なんてなくなっちまったよ。
民事裁判で何億も請求されてさ裁判所命令で競売に掛けられちまって人手に渡っちまったさぁ。
茶室もなにも、ぜーんぶ人手に渡っちまったさぁ。」
「それがどういうわけか・・娘と孫娘を引き合わせてくれる人がいた。
へへへ。
いちど人生、道を踏み外すと、世の中掌返したように・・・。
あぁ悪い奴らがいたものさ。
私の娘と孫娘はアダルトビデオに売られちまって、男たちに甚振られてさ。
考えられるかい？母娘揃ってカネの為に男に犯されるって。
私はそこで・・馬鹿になっちまった
だから・・ここに来たようなもんさ。へへへ。」
ほぅ随分と壮絶な人生ですな・・・。
ところでさっさと帰ってくれないか、自分の部屋に！
「それもこれもあの旦那のせいだ。
今も働きもせずに刑務所なんかでウロウロしてんだろぅよ。
刑務所の外じゃ、妻と娘が体張って金策に苦しんでいるのにな。」
悪い旦那に引っ掛かったんだね、はいはい、早く帰ってくれ・・。
するとキヨコは私の顔にその皺くちゃな顔を近づけてきた。
「あんたぁ、ホントはわかってるんだろ？
へへへ。
あんたぁ、ホントは、わかってるんだろ？
ほら、さぁ、こたえなよぉ。」
私の視界いっぱいにキヨコの顔が迫ってきた。
「私の娘が身を落として働いて稼いだ・・。
身銭を・・。
吸い取っているのは、あんたなんだよ！」
一瞬、脳内に電気が走ったかのような衝撃が貫いた。
「娘の旦那は馬鹿なドラッグに手を出して事故を起こした・・。
そりゃぁ悪かった。悪いことしたんだからさ。
佐藤和秀ってのはあんたを引いた男さ。そして娘の亭主。
役所勤めだから安心だと思ってたのにさ、馬鹿な事故を起こして。
本当に悪いやつだ！」
コイツの娘の旦那があの気狂いドライバーだというのか！
私の仲間たちを。
私の両親を。
そして宇佐美さんの仕事を奪い・・
私の体の自由を奪ったろくでなしのジャンキーの
佐藤和秀だというのか！
この腕さえ動けば・・お前ら一家を皆殺しにしてくれる！
怒りの力は私の身体に異変を起こさせるほどに強烈だったようだ。
「へへへへ、やっぱり聞こえてるんだねぇ。
顔から汗がいっぱい噴き出してるよォ、へへへ。」
キヨコはギョロッとした目をパチクリさせながら話を続けた。
「けどさぁ、私の娘たちまで酷い目に遭うことはないじゃないの。
人殺しの女房として罵られ。
わたしの孫たちは、人殺しの子どもと虐められて。
これまでもさ、相当酷い目に遭ってきたんだ。
どれだけこのさき続かなきゃならないのかね。
いつまであんたのために惨めな人生を送らなければならないのかね？
あんたが居なくなれば、おわりにできるんじゃないかね。」
次の瞬間、私の全身の神経は一瞬にして繋がったのかもしれない。
動かない体に一度に電流と血潮と汗が流れたように感じた。
そして同時に激しい悪寒が全身を駆け巡った。
キヨコは包丁を取り出した。
「ここでわたしがあんたを殺したら、殺人罪で捕まるんだろうね。
でも精神鑑定でまたここに戻ってきてしまうだろうね。
だって認知症患者だからね、わたしは。
へへへ。
夜勤をサボって寝てる介護主任がクビになるだけだろね。
へへへ。」
いままで死を望んできた。
それは事実だ。
だが。
なんてことだ。
畜生め！
よりによって・・・！
「へへへへ！」
キヨコは血走った眼をギョロつかせて私の身体の上に包丁を振り上げた！