Libera me
「シンジさん、ごめんなさいね。もうタカコさん食事が終るから・・ごめんなさいね」
なんども米つきバッタのように頭を下げてシンジさんはようやく席に着く。
すると空の椀をなんども飲み干すしぐさを見せる
なんてところだ_。
・・・まるで動物園だ。
余りのショックで、とても気分が落ち込んだ。
ユニットリーダーが近づいてきた。
「ほらぁ田口さん、誠司さん胃瘻の準備をする時間だよ!いいよ私がやっとく!
こんなの簡単だから。終ったら点滴おねがいしまーすってナースに連絡して!」
介護主任はタカコが撒き散らした残飯を清掃用のほうきで掃き出しながら・・
別な用事を思い出したのだろうかほうきを私の車椅子に立てかけて・・
コイツは完全に私をモノ扱いしている。
ソファに座っている婆さんが私の方を指さして笑っている。
「まぁまぁ随分若いのにねぇ、あーんなに呆けてしまって・・」
私に嫌味でも云ってるつもりなのか。
小柄で皺くちゃなそれでいて目玉のギョロッとした婆さんが・・
「まぁ人間あんまり長生きするもんじゃないょ、へへへ。」
なんとも不愉快な響きの笑い声をあげる。
「キヨコさん、そう云うこと云わないで_。誠司さんはアレでも聞こえているんだから。」
介護主任の気の無い言葉にキヨコは笑い出した。
「へへへ。へへへ。」
「へへへ。」
キヨコは皺くちゃな顔で不気味に笑い続けた。
× ×
私の名前は松居誠司。
得も知れぬ不可解な行動をとる精神疾患・・恐らくは認知症を患った老人たちと共に
この介護施設に「幽閉」されている。
毎日が地獄だった。
昼間気がつくと居間に連れ出されて、半日近く居させられる。
朝食が済むと、申し訳程度の「運動の時間」があり、ラジオ体操をするのを眺めさせられる。
まだいい。
問題はその後だ。
中年の眼鏡をかけた女性介護主任が先導して年寄りに歌を歌わせるのだが・・・。
しかも唱歌というやつだ。
これが酷い。とても聴けたものではない。
「さぁ皆さん、いっしょに唄って!」
”春の小川は、さらさら行くよ。
岸のすみれや、れんげの花に、
すがたやさしく、色うつくしく、
咲けよ咲けよと、ささやきながら。
春の小川は、さらさら行くよ。
えびやめだかや、こぶなのむれに、
今日も一日、ひなたでおよぎ、
遊べ遊べと、ささやきながら。”
老人たちは誰も歌いはしない。
「もういちど、唄うよ!」
・・また唄うのかよ・・
これが二度三度繰り返されると辛くなる。
”春の小川は、さらさら行くよ。
岸のすみれや、れんげの花に、
すがたやさしく、色うつくしく、
咲けよ咲けよと、ささやきながら。
春の小川は、さらさら行くよ。
えびやめだかや、こぶなのむれに、
今日も一日、ひなたでおよぎ、
遊べ遊べと、ささやきながら。”
私は・・なぜこんなところに居なければならないのか!
どうしてこんなわけのわからなくなった老人たちといっしょに居なければならないのか!
私は・・研究の傍らスポーツにも長けていたんだ!
夏はウィンドサーフィン、冬はスキー・・
学生時代は一度も勝てはしなかったが東大野球部だったし。
守備はセンターで、打順はクリーンアップも打ったこともある!
小中高は陸上部に入っていたし体は鍛えられていたはずだ!
そんな私が!
大学の研究室でまさに最先端のクリーンエネルギーの研究をしてきた私が!
精神的な疾患を抱えている老人たちの中で、人とも思われずに
ただただ腐りきった時間を過ごさねばならないのか_。
なぜこんな仕打ちを受けなくてはならないのか!?
ここにいると神経が・・もし繋がっているとすればだが・・逆撫でされる。
気が狂いそうだ!
あぁ・・タカコさんが私の目の前で笑っているぞ・・
早くどけてくれ!
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
よだれ垂らしながら笑ってるぞ・・
頼むから早くどけてくれ!
「はぃはぃ、タカコさん、誠司さんはお部屋に連れていくからね、ごめんね」
大柄な田口さんがあのイカれた婆さんをどけてくれた。
部屋に戻るとベッドに移された。
頼むからここから動かさないでくれないか・・。
「はぃ、誠司さん、お食事の準備をしますからね。ナースさんが来るから待っていてくださいね。」
この男、私に目を合わせようとしない。
勿論、私に意識があると思っていないのだろうが、だが私に語りかけてはくれる。
それから当番の看護師が胃瘻のチューブを付けてくれる。
これが私の”食事”なのだ。
事務的に検温、血圧、プルスを記録し。終わると生理食塩水、そしてお決まりの点滴と続く。
点滴には私の意識を遠のかせる薬が入っているのだろう。
次はいつ意識が戻るのかわからない。
夜中である時もあれば、明け方のときもある。
夜中であればあの苦痛とも思われる介護主任の唄を聴かずに済む。
× ×
私の名前は松居誠司。
勿論40になる今迄にだって恋もしたし浮いた話もいくつかあった。
だがいまとなれば妻子など居なくてよかった、と本当に思う。
こんな身体になってしまったのであれば悲しませるに決まっている。
そしてそのことだけは仕合せであったのかもしれない。
シフトの関係だろうか、看護師の宇佐美さんは数日に一度私の部屋に来てくれる。
他の看護師もいちいち私に声掛けをしてくれるが、親身になって私の目を見て話しかけてくれるのは
宇佐美さんだけだ。
「今日は新しいパジャマがNPOさんから送られてきましたよ。
誠司さんにはちょっと地味かもしれないけれど、着心地はいいと思いますよ。」
私の目はすでに色目が解らないものになっている。
だが宇佐美さんがそういうのであればきっと年寄り臭い地味目のグレーなのだろう。
他愛のない話であっても声を掛けてくれるのが嬉しい。
いつも笑顔を見せてくれるのが嬉しい。
そしてあわよくば_私に意思があることに気付いてくれそうな・・この女性が私の唯一の希望だ。
彼女が来てくれただけで私はとても嬉しく思った。
さぁ、私の意識を、私に意思があることを見つけてくれ!
ここで過ごす地獄のような日々を終わらせてくれ・・。
宇佐美さんは私に真新しいパジャマを着せてくれた・・らしい。
私の目を見つめて・・いや瞳の奥の私を見つめて・・。
「お薬の時間ですよ。」
点眼液をさしてくれたのだろう、目の前が曇った。
そして食後の点滴が始まった。
あぁ・・もうすぐ点滴薬が体を巡り私の意識は遠のいてゆく。
宇佐美さん・・もう少し・・いや少しでも傍らに長くいてほしい。
もう少しいてくれないか・・
もう少しでいいから・・
私は眠りに落ちた。
× ×
私の名前は松居誠司。
嘗ては神童といわれ、後にホープといわれた私が。
いまやモノ扱いだ。
介護主任と同様に私をモノとしか思わない若いユニットリーダーの女性はなにも喋らずに私を
車椅子に移乗させて居間に連れ出した。私にしては珍しく午後に目を覚ましたようだった。
年配の施設長が妙ににやにやしながらテーブルにリンゴを山のように積み上げた。