Libera me
2 神よ我を解き放ち給え
https://www.youtube.com/watch?v=XBXBAUFTMLU
The Tallis Scholars Victoria Requiem Responsory Libera me
ある日目覚めるといつもの病室ではなく明るい日差しの差し込む部屋にいた。
見ず知らずの小柄な年配の女性がにこやかにこう云った。
「誠司さーん、40歳のお誕生日おめでとうございます、今日からここが誠司さんのおうちになりまーす!」
傍らにいたもう少し若そうな女性がにこやかに云った。
「ここは病院の裏にある特別養護老人ホームみぎわ苑でーす、ユニットリーダーの柏木でーす。
よろしくおねがいいたします!」
次に中年の眼鏡をかけた女が云った「介護主任の桜井です、よろしくおねがいしますね。」
後ろにいた大柄な中年男は照れくさそうに云った。「介護職員の田口です、よろしくぅーおねがいします。」
いちどきに云われたところで憶えられない。
というよりなにが起こったのか、理解できなかった。
私の名前は松居誠司。
ある日気がつくと白い壁の病室にいた私が今朝はログハウス風の壁紙の貼ってある部屋にいた。
相変わらず私の周りにはいくつかの機材があるようだが、病室にいる時よりは小さいものに変わったようだ。ただ今迄とは大きく雰囲気の違う場所であることはわかった。
「ここはね、もう誠司さんのおうちだと思ってくださいね!」
私は自宅の部屋を思い浮かべた。
水槽で飼っていたミドリガメのミーコは・・もう、いまい。
研究一辺倒で自宅の自室も夥しい数のコンピュータを持ち込んで仮説と実証に明け暮れていた。
そんなわが部屋から比べればここは・・明るすぎる。
もっと暗く、モニターで埋め尽くしてくれ、私が無駄に過ごした間の情報をくれ・・
こんなところは私の「おうち」ではない。
そこに看護師の宇佐美さんが現れたのでほっとした。
「誠司さん、40歳のお誕生日おめでとうございます。
今日からね、介護保険の2号被保険者として介護保険施設が利用できるようになったの。
ここなら病室と違って居心地がいいと思うから。ね。
私はここの階の担当もしているので、またちょくちょく来ますから_。」
こんな状況でも彼女の笑顔は癒される。
というよりは放り出された大海の中でひとにぎりの藁を掴んだような・・
それはそれで頼もしい気になった_。
だが彼女が帰ると、状況は一変した。
年配の施設長の女の顔がきつくなり突然声を荒げた。
「田口さん、もっとさっさと動いて!
今度入った誠司さんはどうせわかってないんだから居間に連れて行って。」
中年男の介護職は私の身体を軽々と持ち上げ大型の車椅子に乗せると今と云われる場所に
移動を開始した。
思えばこの状態になって自分の身体が移動するのを感じたのは初めてのことだった。
移動の際中も施設長という年配のずんぐりむっくりした女は、この田口という男に口やかましくアレコレ注文を付けていた。
「移動介助の基礎が出来ていない!」
「それではとても危ない!」
「ちゃんとやって、やる気が無いの!?」など
とにかくこの施設長という女の声がキンキン響いて不快だった。
私としては大柄な男性による移動の方が安全かつ的確だ、と思った。
まさか小柄でずんぐりむっくりとはしているがよろよろ歩く年配の女に運んでもらおうなどとは
考えるだけで恐ろしい。
居間と云われる場所では此処に棲んでいる老人たちが集っていた。
大きなテレビがあってその前にテーブルが置かれ老人たちが座っている。
私は窓辺に車椅子を持って行かれた。
「それじゃトクさんの横にね、居てくださいね。」
トクさんと云われた老人は私同様に車椅子に座らされ、点滴を受けていた。
なにやら声を掛けてきたが、判別するほどにはわからなかった。
だが・・こんな老人ですら口がきけるのか、と感心した。
「はい、ご飯になりまーす。」眼鏡をかけた介護主任が声を掛けて食事をひとり分づつ運び始めた。
「シンジさん、ごはんですよ、御席についてくださいねー。」
「タカコさんも手を洗ってから御席についてくださいねー。」
老人たちの席の隣に介護職員が付き食事介助を行なっているのが見える。
細かに肉を斬り、ごはんのうえに乗せて、スプーンで口に運ぶ。
次の瞬間”タカコさん”が大声をあげ立ち上がり、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッと吠えだした!
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
すると横にいた介護主任は驚きもせずに”タカコさん”の背中を擦って云った。
「大丈夫、おいしいよぉー、とてもおいしいから食べよ、タカコさーん!」
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
まるで猿かなにかのように。
食事をとる喜びなのか。
味が気に入らなくて抗議しているのか。
興奮して立ち上がって頭を揺らしながら。
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
これが認知症というやつか_。
「タカコさん、座って。お座りして、ご飯を食べょ、ねー。」
するとタカコさんは大きな尻を椅子の上にドスンとおろすと介護主任の差し出すスプーンに
いっきに食らいつくと、今度はゲラゲラと笑いながら立ち上がった。
ワハハハハハハ、ワハハハハハハ
ワハハハハハハ、ワハハハハハハ
ワハハハハハハ、ワハハハハハハ
ワハハハハハハ、ワハハハハハハ
米が、肉片が飛び散り、汁がこぼれた。
介護主任は驚きもせずに、しかも凝りもせずにタカコさんに話しかける。
「タカコさん、お食事しよぅょ。」
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ、ゥォッ
ワハハハハハハ、ワハハハハハハ
ワハハハハハハ、ワハハハハハハ
ワハハハハハハ、ワハハハハハハ
ワハハハハハハ、ワハハハハハハ
すると耐えかねたような顔をして介護主任が声をあげて席を立った。
「田口さん、代わって!私じゃだめだわ!」
すると先程の中年男性が横に座りタカコさんを宥めると、ニヤリと笑い食事を始めた。
その喰いっぷりが・・まるで獣だ。
アァァァァァァーっ!
「タカコさん、落ち着いて食べようね」
アァァァアァァアァ、アァァァアァァアァ
アァァァアァァアァ、アァァァアァァアァ
アァァァアァァアァ、アァァァアァァアァ
アァァァアァァアァ、アァァァアァァアァ
食事を終えると両手で皿をとり綺麗に舐めはじめた・・。
その姿は獣そのものだ。
こんどは向かいにいた男性が大声を張り上げて立ち上がった。
「きたねぇ喰い方しやがって!貴様ぁー」
田口さんが立ち上がって今度は男性を宥めはじめた。