Libera me
だから、その脳が損傷してしまうと、そういったことをしなくなってしまうんです。
だから私たちでは問題にならないような・・ダニに咬まれたとか・・そういったことが全身に一気に広がってしまったりするんです。
特にあの頃は容態が安定していなかったこともありましたし。」
「皆、こういうことになるんですかね・・その・・脳みそが・・損傷すると・・」
母がおずおずと尋ねた。
「症状は千差万別です。高次脳機能障碍というのはどんな症状がでるか、わかりません。
ただ誠司さんは此処一年は容態が安定してきてますから・・。」
「でも・・お医者さまには感謝してるんですよ。
ひと昔前なら即死の状態だったところを、命を助けていただいて。
これ以上の幸せなことはない。
背中の火傷も治ったし、皮膚疾患も治していただきました。
感謝しすぎることはない。
でもね、<脳は一度損傷すると・・完全には治らない>って。
一時的に良くなることはあっても、治ることはないって・・。
表情ひとつ動かないなんて。指一本動かないなんて。
水も食糧も管で入って。
痛いも痒いもわからない!
起きているのか寝ているのかすらもわからない!
それじゃ植物人間じゃないですか!
まだ私の息子は39歳なんですよ!
私の息子は東大出たエリートなんですよ!
日本を救うことが出来る男なんですよ!
それが、それが・・あんまりじゃないですか!」
母の感情は崩壊した。
看護師がバリカンを手放して母に寄り添った。
大声で泣く母を見るのが辛かった。
「落ち着いてください、おかあさん、ここに座って・・落ち着いてください・・。」
看護師が母を宥めすかして椅子に座らせると、私の方を見た。
「あらたいへん、髪の毛が眼にかかってしまっているわ!」
看護師は私の顔にかかっているだろう毛をはらってくれた。
そのとき看護師は私の顔を覗き込んだ。
そして神妙な面持ちに変わっていった。
私を見つめて云った。
「誠司さん、わかるの?」
私は声にならない叫びをあげた!
そうだ!私はここでいつもキミを見ているぞ!
キミはプレートにある「宇佐美」さんだろ!
キミこそが白衣の天使だ!
看護師が傍らにあるナースコールのボタンを押すと、他の看護師たちが集まってきた。
そして「山崎」と書かれたプレートを付けた大柄の医師がやってきた。
「私の問いかけに瞳孔が反応したんです・・誠司さんには意識が戻っているのだと思います・・」
そうだ。
私は意識がある。
そして私には意思がある。
「誠司さん、私が解りますか?」
宇佐美さんが私の目の前で話しかける。
次は母が私の顔を覗き込んだ。
「誠司、誠司ぃ・・」
山崎がペンライトで私の目を照らしたのでホワイトアウトしてしまった。
「確かに瞳孔がぁ動いているなぁ」
だらしのない言い方が気になる奴だ。
山崎は耳元で指を何度か鳴らした。
「うぅぅん、音にも反応している・・かもだねぇ。」
山崎は看護師に指示した。
「レントゲンと脳波検査してみて。」
× ×
私の名前は松居誠司。
私は運がいい男で思いついた懸賞に応募して車も当てたことがある。
ラッキーボーイだ。商店街の抽選でハワイ旅行も当てたことがある。
そういうものについて私は感が働くというか・・運がいい男なのだ。
だから私は生き残ることが出来た。
脳波検査を終え病室には連絡を受けて駆けつけた父、そして母。
ベストを着たNPOの支援団体の人もいた。
そして宇佐美さん。
山崎医師はレントゲン写真をモニターに出して、脳波検査の報告を始めた。
大柄な山崎医師は私の方を見て、次に集まった人たちに語りかけた。
「瞳孔の反応、音の刺激に反応することが確認され意識があると思われたのですが。
残念ながら、肉体的な反射的な反応でした。」
この藪医者め!
父母の落胆は目にも明らかだった。
宇佐美さん、違うと云ってくれ、このデブの藪医者の見立ては間違いだ、と云ってくれ!
「ただ反応が現れたということは脳機能の復調を意味しているわけでして・・」
畜生め!
母は父の腕にもたれかかった。
貴様、山崎!
私は激昂した。
だが其れを現わす手段がなにひとつなかった。
肩を落とした父母を見ているのが辛かったが瞼を閉じることも出来ない。
NPOの支援団体の人が私の前に顔を近づけた。
「私は高次脳機能障碍者支援団体<いのちの木>の吉田です・・。」
すると山崎は口を挟んだ・・「ですから・・意識は・・ないのです。」
吉田さんはその言葉を無視して言葉を続けた。
「私たちは共に障碍と戦う同士です。私の息子も交通事故で高次脳機能障碍を負っています。
私たちはいつの日か、今日ではないかもしれない。でも明日かもしれない・・あなたが気付いてくれる日を信じている・・。」
要するに・・親へのアピールだ。
「私たちはいま進んでいる民事裁判でも必ず勝利し、経済的な不安を払拭するように頑張っています。
だから、あなたもひとりで戦っているのではない。だから心を折らずに頑張ってください。」
あぁ・・経済的負担か_。
いったい私の治療にどれほどの金額がかかっているのか_。
年金暮らしの父母に、如何ほどの負担がかかっているのか_。
私は激しく落ち込んだ。
次に宇佐美さんが顔を近づけてきた。
「私は信じているから。誠司さん、聞こえているよね。」
あぁ、聞こえているとも。
「私の声が聞こえているよね、私の顔が見えているよね。」
あぁ、聞こえているし、見えているよ!
「また検査する機会もあると思うから、そのときまでもう少し辛抱していてね。」
父母が部屋を出てゆく。
吉田さんが出てゆく。
そして振り返りながら宇佐美さんが出てゆく。
吉田が振り返り舌打ちしながらドアを閉めた。
× ×
× ×
後部より強い衝撃を受け、シートベルトをしていなかったことを後悔したがもう手遅れだった。
この記憶だけがなんどもなんども思い出される。
だがその前のことが思い出せない。
× ×
× ×
私の名前は松居誠司。
子供の頃から足の速かった私は小中高と陸上部で短距離走と障碍走をやってきた。
高校三年の時にはインターハイにも出場した。だから足には自信がある。
大学時代は一勝も出来なかったが東大野球部のレギュラーだった。
勿論、打順は一番。
だが。
今の私は運動障害を患いなにひとつ体を動かすことが出来ず
表情すら変えることが出来ない。意思を伝える手段もなく。
食事を味わうことも出来ず、水すら喉を通らない。
一日に数回の点滴と注射によって薬を投与され
ただ只管に”生かされている”。
その薬のせいで一日のうちの大半を朦朧と過ごしている・・。
そんな人間にいったいなんの価値があるというのか_。
であるならば、殺してくれ。
いまのままでは、生ける屍では。あまりに惨めで辛すぎる。
だが、そんな思いすら伝えられない。
巨漢の山崎がひとりで病室に顔を出した。
白衣の腕をまくり上げ、ペンライトで私の目を照らした。
「なぁ・・。聞こえてるんだろ?」
!・・。
「あんたほどの頭の切れる人なら、だいたいのことは理解できているんだろうな。