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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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影さえ消えたら 3.逃避

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 昨夜の焼き鳥と白米で真夕とふたり、昼食を取っていると、玄関先のチャイムが鳴った。
 やっぱり綾女が様子を見に来たのだろうか、と考えながら引き戸を開けると、目の前に牧琴菜が立っていた。

「遊びにきちゃった。上がってもいい?」

 アッシュカラーの髪を丁寧に巻き、フルメイクの琴菜が笑顔を見せる。服装もテレビからとび出した芸能人のようにあか抜けていて、なんだか東京に引き戻された心地になる。

「ああ……うん、でも」

 隼人が三和土に置かれた小さな運動靴を見ると、琴菜もすかさず視線を下げる。「綾女の」と言いかけた時、背中に突き刺さるような視線を感じた。上り框に足をかけた琴菜の目線の先に、柱から顔を半分だけ出した真夕の姿があった。

「なんだ、真夕ちゃんも来てたの? お母さんは仕事? 美味しいおやつ持ってきたから、あとで一緒に食べようねー」

 琴菜が愛想をふりまくようにそう言ったが、真夕はすかさず顔を引っこめた。琴菜は「なーんか嫌われてるのよねえ」と言いながら、ヒールの高いサンダルを脱ぎ捨てる。

 おみやげだという紙袋を受け取って琴菜のあとをついていくと、香水のにおいが鼻の先をかすめた。東京の街中でよく嗅いだその香りが実家にしみついた古い木材のにおいと混ざり、どうにも落ち着かない気分になる。

 真夕はちゃぶ台の前に座って、もくもくと弁当を食べていた。琴菜の視線を感じたのか、ナフキンですばやく弁当をかくしてしまう。

「もう片づけは終わったの?」
「まだなんだけど、ゆうべ大輔が来たからここだけきれいなんだ」
「あいつ、家に来るたびに『女のくせにだらしない』ってうるさいのよ。余計なお世話よね」

 そう言って笑いながら琴菜が鼻の上に皺をよせる。隼人も苦笑いをして「ほんとまったく」と同意したが、標準語を使う彼女がどうにも少女時代の琴菜と結びつかない。

 小学生時代の彼女は、クラスでは目立たない存在だった。おさげ髪を結って眼鏡をかけ、休み時間はいつも本を読んでいたような気がする。それも綾女からそう聞かされたから脳が勝手にイメージしているだけで、はっきりと像を結ばない。

 ただ「図書準備室に閉じこめられた」ことは記憶に残っていた。

 いつも遅くまで学校に残って遊んでいた隼人は「鍵を閉められる」ことなど慣れっこだったが、彼女は心細そうに泣いていた。いつもなら鍵を開けたままの窓や抜け道を用意しているのに、この部屋は壁一面を本棚に占領されていた。図書室に通じる扉は外側からかんぬきで施錠されている。唯一、天井に近い窓から夕陽がさしこんでいて、隼人はガラスをぶち破って廊下に出る算段を立てた。すると琴菜は「そんなことしたら丹羽くんが怪我する」と言って余計に泣き出した。これにはさすがの隼人もお手上げだった。

 腹をすかせながら夕日が落ちるのを眺めていると、琴菜は「あたしがどんくさいせいでごめんね」と何度も言った。「どんくさいのは俺や」と返しても、彼女は首をふるばかりだった。

 結局、夜七時頃に巡回に来た用務員が鍵を開け、二人は解放された。近所を探し回っていた彼女の両親が泣きじゃくる娘を抱きとめ、帰宅した隼人は母に大目玉をくらった。そしてげんこつをくらった――とそこまで思い返して、げんこつをしたのは誰だったのだろう、と考える。小学六年の時、父は既に他界していた。母に頬を張り倒されたことはあるが、げんこつをした手は男だった気がする。

 誰か近所の親父だったのだろうか、と思いながら掃き出し窓の外を見ると、見慣れない中年の女性が斉藤の家の敷地内で洗濯物を干していた。たしか早くに独立した息子がいたはずだが、嫁にしては年かさすぎる。親戚でも来ているのだろうか、と考えていると、琴菜が腕をからませてきた。

「これ、最近東京から進出してきたタルト専門店の新商品なんだ。おいしいから食べてよね」

 そう言いながら、横長の箱を開封する。指先は目がチカチカするようなネイルで彩られている。横に座る真夕がじっとりと横目で睨んでいる。

「ほら、真夕ちゃんもどうぞ」
「うち、まだお弁当食べてるからいらん」

 さし出されたタルトを受け取らず、そっぽを向く。どうやら犬猿の仲らしい、ということは隼人の目にも明らかだった。
 面倒事をさけたくて湯を沸かしに台所に入ると、琴菜が皿を探しにきた。

「ねえ、片づけが終わったら東京に戻るの?」

 食器棚をのぞきながら、琴菜が言う。昨日、大輔にも返した言葉をそっくりそのまま話す。

「そのつもりだけど。これ以上仕事は休めないし、家もそのままだから」
「じゃあ私も丹羽くんと一緒に東京に行こうかなあ……」

 琴菜は小皿を見つめながらポツリとつぶやいた。突如、心にのしかかった言葉をかわすために、隼人は口を開く。

「おまえが東京に行ったら、大輔が寂しがるんじゃないか?」
「私たち、そんな仲じゃないのよ。ただの腐れ縁。あの日もたまたま呼び出されて、飲みにいっただけなの」

 居酒屋の喧騒の中、突然姿を見せた大輔と琴菜を思い出す。二人で会話をしているときの琴菜は関西弁を使っていて、大輔にも甘えが見えかくれしていた。酒に酔ってでかい図体を預けるその姿から、男女の仲にあると想像するのは容易なことだった。

 小皿を持ったまま琴菜は動かなくなった。空気が重くなって、たまらず話題を切り替える。

「むこうにはどれくらい住んでたんだ?」

 隼人がそう聞くと、琴菜は一瞬、顔を明るくして言った。

「高校を卒業したあとに、すぐ上京したの。アルバイトしながら雑誌社をしらみつぶしにあたったのよね。私にできることって文字を綴ることくらいだったから。何年かして運よく拾ってもらえたところで編集の仕事をしてたけど、アラサーのおばさんはいらないって、去年あっさりポイされちゃった」

 そう言って琴菜は笑う。自ら卑下することで最低限のプライドを守ろうとするその手法は、隼人も痛いほどよくわかる。地元で神童だと言われて飛びこんだ東京の学校には、勉強もスポーツも自分より勝るものが掃いて捨てるほどいた。それでもいつか見返してやろうと十代の頃は必死だった。二十代の頃はまだ可能性があると信じていた。

 三十二になった今、自分の中に残る可能性を掘り起こす作業は、限りなく無駄に思えてしまう。一度失墜した自尊心を簡単に立て直せるほど、もう体は軽くない。ありきたりな日常を維持するために仕事をこなし、逃げることも立ちむかうこともままならない日々――
 未来の全てを飲みこんでしまうあの曇天の空を思い浮かべるたび、隼人の心は重くなる。

「……今はこっちで働いてるのか?」
「フリーペーパーを作る小さい編集部にいるんだけど、記事はかかせてもらえなくてさ。営業みたいなことばっかりやらされてる。たいしたお金にもならないのに、嫌になるよね……って愚痴っちゃってごめん」

 琴菜はとっさに笑顔を取りつくろう。その笑みに、思わず同情してしまう。日々の雑多な業務にもまれて授業にむかうとき、自分もこんな表情をしていたのだろうかと思ってしまう。