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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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影さえ消えたら 3.逃避

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 やかんの口から湯が吹きこぼれた。あわててコンロのつまみをひねる。すると皿を置いた琴菜がじっと目を見ながらにじりよってきた。

「丹羽くんってさ、私の憧れの人によく似てるのよね……」

 視線は合っているのに、どこか遠い目をしながら琴菜は言う。

「憧れの人?」
「そう……昔、車にはねられそうになったことがあってさ、その時に助けてくれた人にすごくよく似てる」
「もしかして俺の親父とか?」

 熱っぽい視線に耐えられなくなってそう茶化すと、琴菜も笑って首をふった。

「お父さんと間違えたりしないわよ。この目じりがきゅっと上がってるとことか、ほんとそっくり……」

 そう言ってネイルアートの施された指先で、隼人の目じりを触ってきた。ひんやりとした指先の感覚に体が反応しそうになって、思わずうしろに身を引く。

「丹羽くんが東京に戻るとき、私も一緒に行ってもいいかな……?」

 女性特有の凄味のある声を、隼人は何度か聞いたことがある。付き合っていた女性と最後の別れをするときの、あの発声だ。熱と湿度の高いこの響きに負けてしまうと、あっという間に身を引きずられてしまう。
 隼人は息を飲みながら、琴菜から発せられる感情を遮断しようとした。

「いやでも、まだ帰る日も決めてないし、おまえも仕事があるだろ」
「別にそんなのどうだっていいのよ。代わりはいくらでもいるんだから」

 その言葉に、隼人は胸が冷えるのを感じた。代わりはいくらでもいる。夏期講習の最中、見捨てた生徒の指導をする人間は他にいくらだっている――

 身をよせてくる琴菜を押しよけると、引き戸のそばに立つ真夕と目が合った。

「……お弁当箱、洗ってもええ?」

 その声を聞いて、隼人は安堵した。真夕が運んできた瑞々しい花の香りが、隼人にまとわりついた鈍色の空気を浄化してくれる。

「踏み台を持ってくるよ」

 琴菜の瞳をふりきって和室にむかう。背中に視線を感じる。ふりむいてはいけない。取り残された彼女が真夕にどんな表情を見せているか気になるが、無心で踏み台を探す。

 踏み台を持って台所に入ると、真夕は「いくつといくつカード」を読み上げていた。ところどころ引っかかるので隼人が助言をする。その様子を、琴菜が痛いほどの視線で見つめてくる。

「今日は帰るわ。この子がいたんじゃ何の話もできないし。タルト食べてね」

 ようやくまとも呼吸ができる、と脱力した途端、琴菜は意味深な目をして言った。

「また明日、来るから。今日と同じ時間でいいかしら?」

 余裕のある笑顔でそう言い切られて、隼人は「ああ」としか返事ができなかった。カードを読み上げている真夕にむかって「明日は学童に行きなさいね」と言い残していく。

 二人で玄関先まで見送ると、真夕はぽつりとつぶやいた。

「……あの人、きらい」
「……どうして?」

 思わず俺も苦手だ、と言いそうになった隼人は、とっさに言葉を取りつくろった。

「なんでも勝手に決めるから。すごく高いごはんやさんとか、おみやげとか……東京でしか売ってない服とかプレゼントされても、お母さんが困るんやもん」

 ヒールを鳴らしながら去っていく琴菜の背中を見て、真夕は言う。独身者と既婚者のあいだにある金銭感覚の差以上に、ひとりで娘を育てる綾女にはそれなりの苦労があるだろう。それに綾女にもプライドがある。元同級生の彼女から娘にブランドの服を与えられたりすれば、素直には喜べないだろう。 

 琴菜もそのことをわかってやっているのだろうか。隼人の前であえて標準語を使うのは、彼女なりのプライドかもしれないと思うと、強く責める気にもなれない。

 昼下がりの強烈な日差しの中、琴菜の影がどんどん薄くなっていく。
 明日もまた来るのか――と思わずため息をついて、斉藤家の方を見た。また例の見知らぬ女性が玄関に出て掃き掃除をしている。いつから出入りしているのだろうと考えていると、表札の文字が目に飛びこんできた。

 ――井川?

 何度か瞬きをくり返したが、表札には「井川」の文字が彫りこまれている。平屋造りの古家も庭の垣根も、なんの変りもない。左隣の表札は「宮原」でたしかに綾女の実家だ。同じ通りにある他の家の表札には変化が見られない。

 髪の生え際から嫌な汗がつたうのを感じながら、隼人は「井川」の表札に歩みよる。かすかに震える指先で表札を触ってみるが、古ささえも感じられて全身の毛が逆立ちそうになった。

 すると外溝の掃除をしていた中年女性が訝しげに隼人をのぞきこんできた。

「……もしかして丹羽さんとこの、隼人くん?」

 名前を呼ばれて、隼人は身を固くした。ぎこちなくうなずくと、彼女は途端に相好を崩した。

「なんや、そんな変な動きしてたら変質者がウロウロしてるんかと思うやんか。ウチに何か用?」

 この女性は隼人のことを知っている――そう考えると、また汗が吹きだしてくる。

「えっ……と……いつからここにお住まいでしたっけ?」

 汗をぬぐい、慎重に言葉を選びながら、隼人は声を出す。

「いつからて、二十年以上前やん」
「そうですか……」

 カラカラに乾ききった喉をふりしぼって返答する。すると女性が顔をのぞきこんできた。

「顔色悪いんと違う? お母さん亡くなって、ちゃんとしたもん食べてへんのやろ。そや、こないだもろた枇杷がたしか……」

 隼人が引きとめるのも聞かず、女性は家にかけこんでいった。
 隣に立っていた真夕が心配そうに隼人を見上げてくる。

「なあ真夕ちゃん、お隣の人って……井川さんだったかな」
「……ようおぼえてない」

 そう言って首を傾げる。たしかに隼人も子供の頃は大人のことはみんな「おっちゃん」「おばちゃん」と呼んでいて、苗字をはっきりとおぼえていない人物も多い。

 ビニール袋いっぱいの枇杷を受け取って自宅に戻ると、ふと電話台が目に入った。確か先日も「か行」のところにあるはずの桐生大輔の名がなくなって、そのあとなぜか元に戻っていた。寝て起きれば、また「斉藤」に戻っていたりするのだろうか――

 目眩を感じながら居間に座りこむと、真夕が麦茶を運んできてくれた。

「隼人兄ちゃん、ほんまに顔色悪いよ。これ飲んで、お昼寝したら?」
「お言葉に甘えてそうさせてもらおうかな……真夕ちゃんはどうする?」
「テレビでも見とくし、うちのことは気にせんといて」

 そう言う真夕のうしろに、綾女の姿が見えるようだった。なんだかホッとして、和室に布団を敷く。
 天井近くの壁には隼人が小学四年の夏に取った写真が飾られている。綾女とふたりで宮原家の前でかしこまった顔をしている。何のタイミングでとった写真かおぼえていないが、母のお気に入りには違いなかった。端にわずかに映るのが斉藤家の垣根だ。何度か塗り替えはされているが、今とほとんど変わらない。

 あともう少しで表札が見える位置だが――アルバムをあされば、斉藤家の表札が映っている写真を見つけられるかもしれない。

 前日の夜、ひどく酔っぱらっていた斉藤の親父はいったいどこに消えてしまったのだろう――そう考えながら、隼人は深い眠りに落ちた。