影さえ消えたら 3.逃避
ついに指を使って数えはじめた。やはり彼女の苦手は「5」を越えたあたりから発生するようだ。これは算数を始めたばかりの子供によく見られることで、数の概念がまだ身についていない。何の問題もなく「7」と答えられる子もいれば、真夕のように「5」を越えた途端に止まってしまう子もいる。ここをクリアしなければ引き算もできるようにならない。
「そう。3と4で7、だ。これをおぼえれば、『7‐3』も簡単に解けるようになるよ」
「ええー……言うてる意味わからん……」
「そのうちわかるようになるから大丈夫。さあ、続きをいこうか」
カードを見つめて意気消沈する真夕にも手伝ってもらいながら、次々にカードを作っていく。厚紙を同じ大きさに切るのが真夕の役目、丸を塗りつぶすのは隼人の仕事だ。
最後に白丸九つ、黒丸ひとつのカードを作ると、全四十四枚のカードを真夕に手渡した。
「これは『いくつといくつカード』って言うんだ。計算カードをやる前に、かならず何度か読み上げる。最初は「1と1で2」の順番どおりでいいし、慣れたら逆から読んだり、シャッフルしてどのカードからでも読めるようにするんだ。全部頭に入った頃には、計算もスラスラできるようになるよ」
「ええー、こんなんでホンマにぃ?」
疑り深くカードを眺めながら、ぶつぶつと読み上げている。真夕の調子に合わせながら隼人も声を出す。小さい声では意味がない。はっきりと読み上げるほど、脳の記憶に残る。
「なんか隼人兄ちゃん、学校の先生みたいやな……」
読むのが疲れたのか、頭をちゃぶ台に乗せて真夕がつぶやく。隼人はふと我に返って、苦笑いをする。
「うんまあ、塾で先生やってたからね」
「ホンマに先生なんや。すごいなあ。今日は塾お休みなん?」
「東京で働いてるから、おばあちゃんのお葬式のためにお仕事休んで戻ってきたんだよ」
「へえぇー東京の塾の先生なん……えらい人なんやなあ」
真夕はちゃぶ台に頭をのせたまま、うっとりとそう言う。彼女の言う「えらい人」の基準がどこにあるのかよくわからないが、「わかりやすい」と言ってもらえたことが素直に嬉しかった。
カードを手に取って、夢中になって教えていたことに気づく。子供が真剣になって取り組んでいると、こちらも時間を忘れて付き合ってしまう。
「隼人兄ちゃん、ありがとう。うち、毎日がんばるわ」
真夕にそう言われて、あんなに仕事を辞めたいと思っていたのに、消えかけていた喜びがまた胸の内に湧いてくる。子供たちの「がんばるから」という思いに応えたくて、寝る間も惜しんで指導方法を苦慮していた日々が蘇ってくる。
「さあ、それを何回か読んで、計算カードのタイムを計ったらお昼にしようか」
胸の奥からにじみ出してきた喜びをかみしめながらそう言うと、真夕は体を起こして「いちとーいちでー」と読み上げ始めた。瞳の輝きを取り戻した彼女を見つめながら、勤め先の進学塾で受け持つ生徒たちの顔を思い浮かべた。
作品名:影さえ消えたら 3.逃避 作家名:わたなべめぐみ