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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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影さえ消えたら 3.逃避

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「うちも手伝う。おばあちゃんと一緒にお花のお世話したことあるから」

 はっきりとした口調で真夕は言う。先ほど母親の自転車のうしろでごねていた子供とは別人のようだ。

「じゃあ花は真夕ちゃんにお願いしようかな。宿題はどうする?」
「うーん……お昼ごはんの前にやりなさいって言われてるけど」
「よし。じゃあ庭掃除は十一時に切り上げて、それから宿題をやろう」

 庭の中に招き入れたとたん、真夕の目の色が変わった。草をかきわけてじょうろを見つけ出すと、「お水あげるから待っててなー」と水道の口をひねった。ここで母とふたり、花の世話をしていた姿が目に浮かぶようで、胸が苦しくなる。

「隼人兄ちゃん、お水あげるのさぼってたやろ」

 突然、口調が強くなった。名前を呼ばれたことにも驚いて体を固くしていると、綾女と同じ調子で眉をつりあげてつめよってきた。母と綾女と真夕と、女三人でそんな呼び方をしていたのだろうかと、不在だった時間が切なく思えてくる。

「あ……いやまあ、ね」

 じつは全部処分するつもりだった、とは言えず、隼人は言葉を濁した。家主のいなくなった庭は夏の暑さに負けてしおれている。そこへ真夕が丁寧に水を撒いていく。そこもあそこも抜いてしまうつもりだった、危機一髪だ、と胸をなでおろしながら、じゃまにならないように隅で枯れ葉をかき集める。

 真夕に水を与えられた花たちが、少しずつ生気を取り戻していく。彼女は何度も何度も水を汲んで、雑草とも見分けがつかない小さな花々に活気を与えていく。乾ききっていた庭の土は湿り気を帯び、大地のにおいがわき立ち始める。

 真夕が満足そうな微笑みを浮かべるたびに、風に揺れる柿の木も、うるさいだけだったアブラゼミたちも歓喜の声を上げているように思えるから不思議だ。

 小さな闖入者のおかげですっかり生命の息吹を取り戻した庭は、夏の陽光をいっぱいに浴びて輝き始めた。

 泥を落して居間に上がると、真夕は慣れた手つきで麦茶を入れてきた。「あーもう、なんでこんなとこにあるんよ」と小言をつぶやきながら棚の上に置かれたハサミやらペンやらを元あった場所に収めていく。
 母親よりずいぶん几帳面なんだなと思うとおかしくなって、ひとりで笑ってしまった。

「今、うちとお母さんのこと、比べたやろ」

 じっとりとした視線で睨みながら、リュックサックから夏休みの宿題を取りだす。小学校一年生とはいえ、女はあなどれないなとひるんでいると、真夕は鉛筆のキャップを抜いて言った。

「ええねん。おばあちゃんもうちのこと、お母さんにそっくりやって言うてたから。そんで隼人兄ちゃんは、おじいちゃんにそっくりなんやって」

 そう言って仏間に飾ってある父の遺影を指さす。堅物で苦手だった父が、黒い額縁の中におさまっている。三十二歳の隼人の前でカラカラと笑っていた人物と、うまく重ならない。
 自分は父の何を知っていたのだろうと考えると、後悔ばかりが押しよせてくる。

「うちは隼人兄ちゃんの方がかっこええと思うよ」

 サラリとそう言うと、真夕は机にむかい始めた。隼人は「それはどうもありがとう」と言いながら、仏壇の前に備えてあったクッキー缶をひきよせた。ふたを開けて真夕の前にさし出す。

「お母さんには内緒のおやつ。お昼前だから少しだけ」
「ふふ、ふたりの秘密やで?」

 真夜は目を輝かせながらイチゴジャムの入ったクッキーをほおばった。言葉遣いは多少ませている気もするが、おやつを食べる姿はそこらの七歳の子となんら変わりない。

「お腹が痛いのは、もう治った?」

 何の気なく隼人がそう言うと、真夕はきまずそうにゆっくりうなずいた。

「学童に行きたくなかったのは、何かわけがあるのかな」

 隼人が胡坐を組んでむかい側に座ると、真夕はちゃぶ台に目線を落した。開いたままの夏休みのプリントの上で、視線を彷徨わせる。

「……だって、おまえは引き算もでけへんのかって、バカにしてくる子がおるから」
「君と同じ一年生?」
「そう。その子は塾に行ってて、もうかけ算もできるねん」

 肩を落とす真夕を見つめながら、隼人は息を吐きだした。人を馬鹿にするために先取り授業をしているわけではない、と心の中では思うが、真夕に言っても仕方がない。

 一年生のうちにかけ算ができて、たとえ同級生を見下せても、大人になった時に何をするかで人生は大きく変わる。小学五年のときから叔父の支援もあって進学塾に通いだした隼人は、自分もそんな態度を取ったことがあるかもしれないと思うと、耳の痛い話だった。
 隼人は真夕を見てゆっくりと言った。

「かけ算は二年生になればできるようになる。それで問題ない。まずは引き算からできるようになろうか。真夕ちゃんが苦手なのは、どういう問題?」

 プリントに手をのばすと、真夕は目を丸くしたままページを繰っていった。

「んっと……こことか。お母さんに聞いたけど、なんでわかれへんのかって怒られてしもた」

 真夕がさしたのは「7‐3」という問題だった。一応丸はついている。

「あとこれ、毎日やらなあかんねんけど、持ってたら指が使えへん」

 真夕はリュックサックの中からカードの束を取りだした。それは算数セットの中に入っている「計算カード」だった。どうやら一桁の足し算と引き算の問題を大きなリングでひとまとめにしているらしい。ついでにさし出されたプリントを見ると、一回目の計測が「三十分」になっている。二回目が「十七分」だ。その後も十分代がほとんどで、綾女もよく付き合ったなと思うが、これはなかなかの難敵だ。

「先生は一分以内が目標やて言うけど、そんなん絶対むりや」

 そう言いながら、真夕は涙ぐんでいた。カードをめくりながら、隼人は言った。

「今から魔法のカードを作るから、それで特訓しよう。夏休みが明ける頃には必ず一分以内にできるようになるよ」
「魔法のカード?」

 涙をためた瞳をこちらにむけてくる。隼人は厚紙を取りだすと、それを手のひらサイズに切って丸をふたつ書いた。ひとつは白丸、もうひとつは黒丸だ。

「これは『いちといちで、に』って読むんだよ。一緒に言ってみよう。さんはい」

 隼人がカードを見せてうながすと、真夕は調子を合わせて「いちとーいちでーに!」と声を出した。次のカードには丸を三つ書く。今度は白丸がひとつと、黒丸がふたつだ。

「はい、次いくよ。いちとーにーで、さん!」

 真夕も続けて声を出す。白丸がふたつ、黒丸がふたつのカードを見せると、「そんなん簡単やん。にーとーにーで、よん! やろ?」と得意げに答える。白丸が三つ、黒丸がひとつも難なくクリアだ。
 その調子で丸の数を増やしていくと、白丸が三つ、黒丸が四つになったあたりで真夕の調子が落ちてきた。

「さんとーよんでー……んんと、いちにいさんしー……なな?」