京都七景【第十四章】
「えっ、気がつかなかったのか。危うくナンパ大学生に間違えられそうになったこととアンミツをおごらされたことさ」と堀井が心外だと言うように肩をすくめた。
「なんだ、そんなことか。意外とうれしそうだったけどな」とわたしが意味有りげにつけ加えた。
「うれしそう?いやいや、俺はこれでけっこう戦々恐々としたよ。もう誤解はこりごりだ。でも、おかげで、それを補ってあまりある材料を手に入れることができた」
「じゃ、消えた二人の解明はできたのかい」と大山が仕上げの質問をする。
「まあな。だが、このときの材料だけではやや不足だと感じたので、その後、京都市の市街地図を買って何有荘と疎水の位置関係を調べ、それから京都市観光協会に電話をして、所有者や公開の有無を尋ねてみた。すると次のような事実が分かった。まず位置関係だが、何有荘から唯一疎水を見通せるのがあの四阿の後ろからだということだ。そうしてそこへ行くのは何有荘の門から入って上る以外に道がないということ、およびその門に行く疎水からの一番の近道は、あの不思議なタイムトンネルを抜ける道だということだ。また、観光協会によると何有荘は非公開で、一般客は入れないが、まれに大きな催し物で使われるときには入る事ができるようだ。で、件の土曜日だが、珍しく華道の催し物が開かれていてチケットさえあれば入場できたそうだ。それらを総合して俺が立てたのが以下の仮説だ。まあ、聞いてくれ。
まず二人は疎水を歩いているときに、どこか二人だけになれそうな場所を探して、例の太い木立の陰にある薮の茂った場所を見つけた。ところが、そこの金網の向こうに、おあつらえ向きに静かな四阿があるのに気がついた。だが、それだけではなかった。そこから下った広い庭園に三々五々人が散歩しているのが見える。ということは、どこかに入り口があるはずだ。そこで二人は持っている観光地図を取り出して、どこから入れるのだろうかと調べるうちに、インクラインと交差する小さな道を見つけた。そこからなら入れるかもしれない、とにかくそこまで行ってみようと、おそらく地図と首っ引きで行ったものに違いない。人の出入りがして何やら催し物のある様子から、門の所在はすぐに分かった。よし、当日券(たいていはある)があるはずだと、二枚買い、一途に山上の四阿を目指し、そこにたどりついて、ひしと抱き合った。ところへ何も知らない俺が顔を出したというわけだ。まあ、これが最も事実に近いのではないかな」堀井がふうーっと長いため息をもらした。
「なるほど、矛盾はなさそうだな」と大山。
「たぶんその通りだろうな」と、わたしも賛成する。
「蓋然性(がいぜんせい)は高いね」と、露野がつぶやく。
「また、難しいことを言って、どうせ哲学用語だろう。どういう意味だい」と大山がたずねる。
「簡単に言うと、確率が高いってことかな」
〈なら、そう言えばいいのに、まったく哲学科ってやつは〉と、これはわたしが心に思った次第。
「あと一つだけ質問しても、いいかな」と神岡がいたずらっぽい顔をして堀井を下から見上げている。だいぶ酔いがまわって来ているようだ。
「ああ、いいよ。納得のいかない点があれば何でも質問してくれ」と堀井。
「情報操作があったようだが」
「えっ、情報操作?それってつまり、情報の隠蔽ってことか」意表を突く神岡の言葉に露野の声が裏返った。
「いや、いや、いや、俺は断じて何も隠蔽していないぜ。今言ったことがすべてだ…だが、待ってくれよ…そんなものあったかな……あ、そうか。二つだけ言ってないことがある。あるにはあるが、でも、それは俺だけが面白いと思っただけで、みんなが面白いと思うかどうか」
「それは言ってみないと分からないのじゃないか」と神岡が食い下がる(このとき、神岡がいったい何に食下がっているのか、鈍感なわたしはついぞ気がつかなかった)。
「それじゃ、言うけど、がっかりするなよ。実は琵琶湖疎水工事の田辺朔郎を知ったとき、俺には俺の大事業があるべきだって言っただろう。それで、田辺朔郎について、もっと調べてみた、すると、琵琶湖疎水工事は水運のために始めたものだが、その水を利用して蹴上に水力発電所を作ったということもわかった。その電力のおかげで京都市内に街灯がともり市街電車が走るようになった。しかも蹴上発電所は日本初の水力発電所で、世界でも二番目だそうだから当時最新の水力発電所だったそうだ。な、すごいと思わないか。おれもこんな大事業をしてみたい。という、ことだが、神岡のくぐもった顔を見ると、どうもそういうことじゃないらしいな」
「もちろんそれも重要な情報じゃあるが、どうも方向性が違っているな。もう一つの方はどんな情報だい」
「それもこれと大差ないぜ。何有荘の所有者で稲畑勝太郎という実業家がいただろう。それについても調べてみた。これも、話したほうがいいんだよな」堀井はみんなの顔を見回した。みんな不得要領のまま、頷いた。
「稲畑勝太郎は十五歳にして京都府のフランス留学生の一人となり、リヨンの学校で染色技術を学び、京都に最新の染色技術を伝えたことで有名な人物だそうだ。だが俺の興味を引いたのは、その事ではない。実はそのフランスの工業学校で、後年活動写真機シネマトグラフの発明で有名になるリュミエール兄弟の兄、オーギュストと同級だったそうだ。その縁が実って、後に京都で発明されたばかりのシネマトグラフを使った活動写真の興行を行ったそうだ。な、すばらしいだろう。この伝統的京都という土地の進取的気性を見よ。京都はいつも新しい。俺もこんな大事業をしてみたい。ということだが、これもどうも違っているようだな」
「それも大切な情報だが、ますます方向が遠ざかるばかりだ。もっと小さい情報なんだが、僕には聞き捨てならないものがあってね、どうやら自覚症状がないみたいだから、仕方がない。僕のほうから質問させてもらうよ。いいかい」
「ああ、いいとも何なりと言ってくれ」
「質問は簡単だ。どうして、家庭教師をしている女の子の名前を教えてくれなかったんだい」
「えっ」堀井はことばを失った。顔の輪郭がこわばり、緊張した面持ちである。
「だって…、その…、ほら…、今回の件には関係ないし、名前を知られてもいやかなって、思ったんだ、個人情報だし」
「やはり、個人的感情が入っているな。だって名前を知ったからってわれわれがその子に会ってお前がした話を告げ口することはないし、話はこの場で終わるはずだから、その子に迷惑がかかることもない。だから、その子の名前を知られたくないのはおまえ自身なんだ。おそらく、おまえがその子の名前を大切に思っていることは、まず確実だろうね。ま、僕のこれまでの経験からの予感だけど、うらやましいぜ」と神岡が優しくなだめるように言った。
「わ、わかった、その通りだ。だ、だ、だから、もう、な、なにも言わないでくれ」めずらしく堀井が顔を赤くして泡を食っている。
「最後に一つだけ質問してもいいかな」今度は露野が真顔で尋ねる。
「いや、できたらもう止めてほしいと今の俺は思っている」堀井が苦しそうな表情をする。
作品名:京都七景【第十四章】 作家名:折口学