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京都七景【第十四章】

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「なに、そんなに難しいことじゃないよ。「無原罪の御宿り」というのはキリストがマリア様の体に胎児として宿ることを表した神聖な絵さ。ほかのキリスト教国でも「受胎告知」とか「処女懐胎」という絵で描かれているから見たことはあるだろう。スルバランの絵はマリア様が下弦の月に乗って、うつむいて目を伏せて立っている姿を描いた絵だ。マリア様は、おそらく自分の中にキリストの受胎を感じている、だから幾分不安げな、それでいて静かで優しい表情をしているのだろう。だが俺がその時感じたのはそんなことではなかった」
「というと」大山がずいっと、身を乗り出す。

「もし、マリア様と四阿の女がそっくりの姿勢、そっくりの表情をしているのなら、二人がほとんどそっくりの感情を抱いていると考えてもいいのではないか、ということだった。だから、さっきまで言い合いしていた不倫とおぼしき女が、今は幾分不安げだが、静かで優しい顔をして男の肩に安心して身をあずけているのを見て、ああ、この女は、いい加減で軽そうに見える男との間に愛を宿し、この男の罪を許し、全幅の信頼を寄せているのではないかと気づいたんだ。そう思ったら神々しくなって、いつの間にか俺は女に向かって合掌していた。ところが、その時、急に女の目が開いた。女は少し目をぱちぱちさせていたが、すぐに俺の合掌しているところが目に入ったのだろう。目を大きく見開き、口を大きく開けた。俺はとっさに両手で両耳をふさぎ、女の「キャー」から逃れるべく半回転して坂を駆け降り、疎水に沿ってこけつまろびつ一目散に走り出した。もちろん手は振っているから、いつまでも耳を塞いでいるわけには行かなかった。ところが悲鳴一つ聞こえてこない。変だ、不思議だと思ったが止まることもならず、南禅院前の石段から水路閣の下を抜けて、南禅寺の門外へ出たというわけさ。
結局、その後、悲鳴も無く、走っているところを人にも見とがめられなかったから、まあ、めでたし、めでたし、というところだね」
「ということは、堀井の長話も、これにて一件落着ということだな」と、わたし。

「なかなか」と堀井がうれしそうに応じる。

「まだあるのかい」と神岡がうんざりする。

「疑問点が一つだけ残っている」
「わかったぞ、その女が悲鳴をあげなかったことだ。それまで振り払おうとしていた怪しい男が金網の向こうで、じぶんたちに向かって合掌しているんだ、これは震え上がって悲鳴をあげないほうが確かにおかしい」と、わたしが、独り合点をする。

「いや、それはべつに解明せんでもよろしい。おそらく俺の合掌している真摯な姿に、はっと心を打たれたのかもしれんし。まあ、結果として、出歯亀疑惑から免れたんだから、それについては不問に付すよ。問題なのはもっとべつな事だ。俺にはどうしても納得できない、一つの事がある」
「二人が大山の前から姿を消して、今度は金網の向こうに現れたって事だろう」と、露野がこめかみに人差し指と中指をそろえて当て、難問を解き明かそうとする刑事さながらの仕草をする。

「その通り。だって、二人は蹴上の交差点から三条通りにそって坂道を東に向かって歩いて行ったんだ。俺が線路から降りたときには、もう姿は見えなくなっていたが、そちらに向かったのは間違いない。もちろん二人の行く先に、公園に折れる道はあるが、そこはずっと先の方だし線路道とも交差していて俺も通るから、二人が通れば分かるし、しかも二人の足取りから考えて、俺より先に行ったとはどうしても思えない。でも先に行ったとして、疎水に出たところは見通しが利くから、前方に姿が見えていいはずだ」
「なら、こういうことだな。実は、二人は行く先々で大山に邪魔されてうんざりしていた。しかも堀井はゆっくりと後をついてくるから同じ道を引き返すのはまずい。またついてこられたりしたら本当に迷惑な、いや迷惑どころか、警察に訴えなければならなくなる。そんな面倒は何としても避けたい。だが、二人はさっき偶然見つけた四阿でどうしてもひしと抱き合いたいと願っている。だからここは堀井を撒こうじゃないかと二人で示し合わせたのさ。堀井は二人が自分に気づいてないと思っていただろうけど、二人の方が役者が一枚上だった。二人は気づかぬふりをして堀井をやり過ごすと脱兎のごとく駆け戻って、あの四阿に身を落ち着けたというわけさ、まさか堀井が帰り道にのぞこうなどとは露考えずに。これがおれの仮説だ。どうだい」してやったかなと、わたしは幾分得意げに胸を張った。

「くふふふふふ」みんなが一斉に失笑をもらした。わたしは顔が真っ赤になった(と思う)。

「脱兎のごとく駆けていく不倫の二人連れって何だよ、そんなの前代未聞だ。それに金網があるんだぜ。どうやって通り抜けるんだ」と大山が呆れ顔で言う。

(しまった、そこまで考えてなかった) 
「穴が開いてたのさ、いや潜り戸があったのかもしれない」わたしが苦しい弁明をする。

「金網はけっこう真新しくて頑丈そのものだった。穴は開いてない。それに人を入れないためのものだから、高くて乗り越えるのもまず無理だし、もちろん潜り戸なんかどこにも無い。それに、この世に俺だけが存在しているなら、俺から逃げる事に意味はあるだろうが、他に通りかかる人間のいる可能性は無数にある。そんなところを脱兎のごとく走ってみろよ。逆に目立つために走っているようなものじゃないか。そんな知恵の無い二人に不倫は無理だと思うな。しかも、俺の会った二人はどちらかというと上品で落ち着きがあって、少なくとも野上の仮説よりは賢そうだった。だから脱兎のごとく走って行く可能性は限りなく皆無に近いと思う。残念だが、野上の水漏れのする仮説は却下だな」
「やはりな、おれも考えながら相当無理があるとは思っていた。まあ、言うだけ言ってみただけさ。話の接ぎ穂くらいにはなるかと思ってな」と、わたしが負け惜しみをする。

「で、他に解決策はあったのかい」と神岡が介入する。

「それが見当つかなくて困ったんだ。俺は下宿に戻ってからもこの事が気になって気になって食い物ものどを通らない。ま、幸いビールは飲めて、そのうち眠くなったから寝るには寝たんだがやはり心のどこかに引っかかっているんだろう、輾転反側を繰り返し、その度毎に目が覚めて、つい、二人はいったいどうやってあの四阿に行ったのだろうかと考えてしまう始末。そんな二晩を過ごした後で、これじゃ仕方がない、実地検分に行くしかないか、と決心して三日目の午前中に蹴上の交差点に立ってみた。同じ時間帯でと考えてもみたが、また再会してはかなわんから、時間だけは何とか午前中のうちにと滑り込んだ」
「で、何か手がかりはあったのかい」とわたしが先を促す。

「ああ、確証とまでは行かないが、納得の行く事実はあった。これから手短に話すからよく聞いてくれ。
 さて、蹴上の交差点に立ってからだが、とにかく二人の歩いた通りに歩いてみようと思い、三条通りの左側の歩道を東に向かって歩き出した。5、60メートルも行くとすぐ左にトンネルを見つけた。線路の上からはうっかり見落としてしまいそうな小さなトンネルだった。中をのぞくとその向こうに風景が開けて細い道が続いている。
作品名:京都七景【第十四章】 作家名:折口学