京都七景【第十四章】
「自信があるんだか、ないんだか分からないような言い方だな。だが、もう、待ちきれん。この際、早く佳境にしてもらわんとな」
「よし、分かった。ここからは、とんとん進めていくからついてくるんだぜ」
「望むところさ」とみんなが一斉にうなずく。
「そこでだ、俺は、もはや二人に会うことは永遠にあるまいと思うとようやくほっとして、さっき来た道をぶらぶらと引き返した。軌道跡を上って、公園の碑を読み返し、狭い金属の橋を渡り、遊水池のわきを抜け、角を左に曲がって疎水沿いを歩く。一度通った道だから手慣れたもので何だかうれしい。幸い、見渡す限り誰ひとりいない。俺は偉大なる明治の精神が生み出したこの空間を独り占めできた喜びに、思わずスキップし始めたものの、足と足が絡んで危うく疎水に落ちそうになった。辛くも踏み堪えて、顔をあげた拍子に、目に入ったのが、何あろう、二人が抱き合っていた、あの茂みだった。さっきは気にしなかったが、いくら木の陰に隠れているとはいえ、こうして反対側から見ると、どうも高い場所すぎて逆に人の目についてしまい、到底、落ち着ける場所とはいえないのではないか。俺は疑念を生じた。疑念が生じると俺は確かめずにはいられない質(たち)だ。早速、二人のいた場所に上って見た」
「なるほど、犯人は現場に戻るって言うな」わたしは、浮かんだ言葉をそのまま口に出した。もちろん他意は無かったが、私も弱い人間である。おそらく堀井に酒に誘われ迷惑している意趣返しがこんなところに、つい、出てしまったようだ。
「どうしてそうなるんだよ」間髪入れず、堀井が食ってかかる。いつになく真剣な堀井の様子に、水を差してはまずいと感じ、
「すまん、すまん、つい悪のりしてしまった。あやまるよ」
私は素直に誤り、話の先を促した。
堀井は一瞬「しょうがないな」という顔つきをしたがすぐ熱心に話し出した。どうやら堀井自身が佳境に入っている様子である。
「二人がいた場所に立つと、すぐそばを疎水に並行して金網が左右に走っている。俺はその向こうが崖だとばかり思っていた。しかし崖は半分までで、その左隣に地続きで見事な池泉庭園が広がり、さらにその先に市街が見える。その絶景に、俺は一瞬目を奪われ、ため息をもらした。だが奪われた目をもとに戻すと、そのため息さえ奪う景色が待っていた」
「なんだ、どうした、何があった」私たちはみんな、身を乗り出して堀井に詰め寄った。
「実は、最初、庭園に目を奪われて気づかなかったが、目と鼻の先に、庭園を見晴らす、四阿(あずまや)があった。幸い、俺のいるところは四阿の後ろ手になっているので四阿からの見晴らしがそのまま眺められる。『なるほど、景色を見るには絶好の場所だ』などと感心しながら眺めていると、横に渡した背板の上に黒い固まりが見える。じっと目を凝らすとどうやら二人の人間の頭が並んでいるようだ。はじめは二人連れが景色を眺めて座っているんだろうくらいにしか思わなかったが、一人の顔がこちらを向いて目をつむっている。どうやら景色を見ているわけではなさそうだ。しかもそれが女の顔である。首に水色のスカーフを巻き、そのしたに金色の布地が垣間見える。俺は、はっとして右隣にある顔を見た。真っ黒である。それは後頭部で、おそらく男のものに違いない。俺はすぐさま襟元を見た。オレンジの下に白い生地が見える。何ということなのか。それは、俺がさっきから、やり過ごそう、やり過ごそうと躍起になっていたあの二人連れではなかったか。しかも二人はご多分に漏れずひしと抱き合っている。俺は天を仰いだ。一瞬、ある考えが脳裏に浮かんだ。今、天など仰いで、自分の運命を託(かこ)っている場合ではないのではないか。もし女が俺に気づいて「キャー」と叫び声をあげ、人でも集まって来たら、俺は本当の出歯亀にされてしまう。これだけは避けたい。
俺は、見つかるのではないかという恐怖に凍りついた。足が地面に張りつき、どうしても動かなくなる。心臓はどくんどくんと打って胸から飛び出しそうになる。勝手にあごがガクガクと動き、口の中はからからに乾く。思わず目をつむった。だが、まだ「キャー」という悲鳴は聞こえてこない。俺は恐る恐る目を開けた。しめた、女は目をつむったまま静かに男の肩に安らいでいた。逃げるなら今だ。
ところが悲しいかな。女の静まり返った安らかな顔を見つめているうちに、はたと、ある美術的重大事に気がついた。美術的重大事となると、俺がもはや目を離せなくなるのは、みんなも知っていたよな?」
「そうだったっけ」と大山が小首をかしげる。
「単に女の美しい顔から目が離せなくなっただけじゃないのか」と、これは私(あくまで俗な判断しかできないところにわたしの人間的弱点があるのです)。
「人は、それをしも出歯亀の一種と言う」と、神岡が宣(のたま)う。
「いや、さすがにそれは無いだろう。なにしろ堀井は美に対してはストイックだ。そこに汚れた心の入る余地はみじんも無いと俺は信じている。ここは堀井の話に耳を傾けるべきだな」と露野がみんなに苦言を呈する。
「いやあ、それほどでもないよ。俺にも煩悩は人並み以上にあるから、そうまで言われると面映いぜ。だが今回は、露野の言う通りだ。よし、まあ、聞いてくれ」そう言うと堀井は居住まいを正して話しはじめた。
「断っておくけど、みんなにはそれほど興味を引くことではないかもしれない。だからあまり期待しないでくれ。
実はその女の顔を見ているうちに、それがある宗教画のマリア様の顔とそっくりなのに気がついた。うつむき加減といい、目をつむっている表情といい、鼻の形、口もと、輪郭、髪の長さと下がり方まで、まるっきりそのマリア様に生き写しなんだ。俺はびっくりして言葉を失った。だって、現実にそっくりの絵はあっても、絵にそっくりの現実があるなんて、俺は今まで見たことが無かったから。それはもう心が震えて気が遠くなるような経験だった」
「で、その絵は誰の何という絵だい。俺たちも知っているのか」と露野が冷静にたずねた。
「たぶん、誰も知らないと思う。スペイン絵画史をかじった人はたいてい知っていると思うけど。スペイン十七世紀の宗教画家スルバランの「無原罪の御宿り」という絵なんだ。スルバランは当時のスペインの大画家で宗教画に秀でていた。描いた絵は静謐すぎて沈黙の世界を描いているのかと見紛うほどさ」
「誰か知ってるかい」と露野が聞いた。みんなは一斉に首を横に振った。
「そうか。じゃ、続けるけど、簡単に説明を加えながらでいいかい」と堀井が提案する。
みんなは一瞬、顔を見合わせ、まるで子どもが初めてグアバジュースを呑み下すように(この比喩がどうも飲み込めないという方は、ぜひ一度グアバジュースをお飲み込みあれ。感覚がつかめること請け合いです)、ゆっくりと一斉にうなずいた。
作品名:京都七景【第十四章】 作家名:折口学