di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア
1.猫の世界と妙なる小鳥−1
目覚まし時計が、やかましく喚き立てた。
ルイフォンは布団の中から手だけを出して、ベッドサイドのそいつを黙らせる。
昨晩は遅くまで調べ物をしていて、床に就いたときには小鳥のさえずりが聞こえていた。いかに若いとはいえ、ほぼ徹夜が続くのはやはり辛い。彼はしばらくうずくまったまま、体が目覚めるのを待った。
いつもならばチャオラウの朝稽古のため、愛すべき甥っ子のリュイセンが問答無用で起こしにくる。だが、今日まで彼は留守だ。それをよいことに、ここ数日の間ルイフォンは、道場にほとんど足を踏み入れていなかった。
すっかり寝坊癖のついた体に鞭を打って、彼は上体を起こす。ぐっと背を伸ばし、それから首と肩を回して凝りをほぐす。寝不足のせいか、軽い頭痛があった。
――メイシアを唆した、ホンシュアという名の仕立て屋は実在しない。
状況から考えて、斑目一族の手の者とみるべきだろう。そして、メイシアを利用して鷹刀一族に何かを仕掛けようとしている。
ルイフォンは腹立たしげに前髪を掻き揚げた。
ベッドから降りて洗面台で顔を洗う。鏡に映る、猫を思わせるややきつめの面差しは、腕利きだった母によく似ていた。
少し考えてから、寝ている間も編んだままの髪を解いて、編み直す。外見にはそれほど拘らない性格のため、見苦しくなければそのままなのだが、今日は整えておくことにした。意外に手先は器用で、瞬く間に編みあがる。青い飾り紐の中央に金色の鈴が綺麗に収まった。
手早く服を着替えると、ルイフォンは机の上にある報告書を手に取った。老人の夜は早く、朝も早い。もうとっくに起きているだろう。
ルイフォンはイーレオの執務室に向かった。
「メイシアを酔いつぶしたって?」
開口一番、イーレオが言った。
「酔わせてどうするつもりだったんだろうな? この馬鹿息子は」
頬杖をつきながら揶揄するように笑う。男前なだけあって、そんな姿さえもさまになる。中身が六十五歳の爺さんと分かっているだけに、ルイフォンは不条理を感じずにはいられなかった。
昨晩、メイシアの様子が怪しくなったところで、実にタイミングよくミンウェイが現れた。明日の朝食もメイシアの部屋に運ぶよう、料理長に言いに来たのだ。
そのときミンウェイが見たものは、メイシアを強引に抱き寄せているルイフォンの姿であった。片手を彼女の背に回し、他方の手は腰に伸びようとしている。ぐったりとした彼女が完全に意識を失っているのは、遠目にも明らかだった。
次の瞬間にはミンウェイは走り出しており、ルイフォンの頭を渾身の力で殴っていた。どすっ、という女性が繰り出したとは思えないほどの重い一撃を受け、不意を突かれたルイフォンは酩酊状態のように頭を揺らす。それでもなお、腕だけはしっかりとメイシアを支えていた。
彼はミンウェイを睨みつけ、抗議の意を放った。
「いきなりなんだよ!」
「あなた! 何したのよ!」
ミンウェイがそう怒鳴りつけたのは、二発目を放ったあとであった。
「夜食に付き合わせただけだ」
ちかちかする視界の中で必死に弁明するルイフォンに、ミンウェイはまるで取り合わない。不毛な争いは、騒ぎを聞きつけた料理長が助け舟を出してくれるまで続いたのであった。
その後、ルイフォンがメイシアを部屋まで運んだ。腕の中で眠る彼女は、暖かい巣で無邪気に眠る雛鳥のようだった。彼は自然とやにさがりそうになったのだが、背後からミンウェイが監視の目を光らせていたので、努めて平静を装ったのだった。
ルイフォンは溜め息混じりにぼやきを漏らす。
「あの程度で酔うとは思わなかったんだよ」
「屋敷にいる女には手を出すなよ。そういうときはシャオリエの店に行け」
「だから、そういうつもりじゃ……」
うんざりとした様子のルイフォンに、イーレオがにやにやと笑いながら、ふと思い出したかのように言う。
「そういえば、シャオリエが最近お前が顔を見せない、と嘆いていたぞ。スーリンも寂しがっている、ってな」
「……俺は結構、忙しいんだ」
「また、あのラジコンヘリか?」
「それを言うなら、自律無人機(ドローン)! 今は、もっと別の――スパコン使っての、株の自動売買システムを……」
ルイフォンが自分の研究について語ろうとすると、イーレオは面倒臭そうに手を振って話を遮った。
「女より機械か? お前の趣味は分からんな」
「別に女が嫌いなわけじゃない。親父ほど、のめりこんでいないだけだ」
憮然とするルイフォンに、イーレオは含みのある視線を投げかけたが、言葉としては何も出さなかった。
「――で。俺の前に来たということは、報告すべきことがあるわけだな」
執務室の空気が一変した。
相変わらずの頬杖をついたままの姿勢でありながらも、イーレオの声色が違っていた。
ルイフォンは背筋を伸ばした。言動に多々問題があろうとも、目の前にいる男は信頼に足る絶対者だ。
「報告書だ」
ルイフォンは分厚い書類の束をイーレオに手渡した。イーレオは真面目な顔で、初めの一枚を見る。そして、言う。
「嫌味なくらい文字が大きいんだが? 一行文字数が少なすぎて読みにくいぞ」
「老眼の親父には、そのくらいのフォントサイズのほうが見やすいかと思ってな」
「紙が増えて、資源の無駄だ」
「だったら、電子データで受け取れよ」
イーレオは若作りをしていても、年齢相応に古い人間なので、紙の書類が好きなのだ。ルイフォンはそれを知っているから印刷してくる。更に、ファイリングするときのことも考えて、レイアウトにも気をつけている。彼の配慮が伝わっているかどうかは不明であるが。
イーレオは再び報告書に目を落とすと、今度は黙ってページを繰り始めた。時々、秀麗な額に皺を寄せながら、彼は最後まで目を通した。
「ご苦労。よく調べてくれた。礼を言う。――それで、お前の見解は?」
「斑目による、鷹刀への謀略。斑目は、あいつを使って何かを仕掛けようとしている」
「だろうな。……可哀想に。お嬢ちゃんは、いいように利用されただけ、か」
イーレオが重い息を吐く。彼が机の上に置いた報告書もまた、どすんとその質量に見合うだけの重たい音を立てた。
ルイフォンは、やるせなげに下唇を噛み、彼の出した結論を進言する。
「……俺は、今からでもあいつを――メイシアを鷹刀から出すべきだと思う」
「却下」
一瞬たりとも迷うことなく、イーレオは言ってのけた。肯定の言葉を確信していただけに、ルイフォンは耳を疑う。
「なんでだよ? あいつは斑目の駒だ」
たとえ、メイシア自身は何も知らなくても、だ。
「あいつにしたって、凶賊(ダリジィン)なんかとは関わらないほうが幸せだろう。――あいつは、貴族(シャトーア)なんだから」
執務机に手をついて詰め寄ってくる息子を、イーレオは相変わらずの崩した姿勢のまま見上げた。
「俺は、お嬢ちゃんの父親と異母弟を助けると約束したんだぜ? 男に二言はない」
「だから、って……!」
「ホンシュアとやらの目的は分からん。だが、お嬢ちゃんの目的は、はっきりしている――家族を助けることだ。そのために身を売る約束までした。だったら、それに応えてやってもいいだろう」
作品名:di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア 作家名:NaN