di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア
2.凶賊の総帥−3
「お前は知らないかもしれないが、斑目は、ある貴族(シャトーア)に雇われて、動いている」
各人がそれぞれの場所に落ち着くと、おもむろにイーレオが口を開いた。
軽く腕を組んだ彼はソファーの背にもたれかかっていたのだが、それでも長身ゆえ、かなり高い位置に目線があった。ただ座っているだけなのに、メイシアは威圧感を覚える。
「そうだったのですか……。知りませんでした……」
「まぁ、それは、さて置くとして。――貴族(シャトーア)なら警察隊に助けを求めるのが筋だろう?」
「通報はしました。けれど、そのような事実はないと言われました」
「ああ、警察隊を抱き込んだか。斑目を雇った貴族(シャトーア)の仕業だな」
イーレオが嗤笑する。
凶賊(ダリジィン)は武力で他の一族を蹴散らし、貴族(シャトーア)は金の力で他家を抑え込む。強いものだけが生き残れる。自然の摂理だ。
「鷹刀は貴族(シャトーア)同士の諍いに巻き込まれるつもりはない。――同情はする。だが、それだけだ」
「ですが……!」
鷹刀一族は長年、斑目一族と敵対関係にあるのだと、メイシアは聞いていた。ならば利害が一致するのではないだろうか。そう、祈るような気持ちで彼女はイーレオを見上げる。
そのとき、イーレオの雰囲気が一変した。それは、美しくとも、立ち入るのを躊躇ってしまうような、静かな深い夜の海に似ていた。
「鷹刀は慈善家ではない。俺は鷹刀という名の帝国の長だ。鷹刀に属する者を護る義務がある。お前に手を貸すということは俺の大事な一族を危険に晒すということだ」
鋭い月光のような瞳が、彼女を冷酷に拒絶した。
メイシアには返す言葉もなかった。華奢な肩は儚げに震え、黒くつぶらな瞳は、今にも涙がこぼれ落ちそうになる。
しかし、それだけでは終わらなかった。「もっと言えばな」と、イーレオが低い声でにじり寄った。
「お前は自分が本物の藤咲メイシアだと証明できるのか?」
「え?」
メイシアは彼が何を言ったのか理解できなかった。
「お前は藤咲メイシアの影武者で、本物は実家でのうのうと朗報を待っている――という可能性もあるんだが?」
青天の霹靂だった。
メイシアは思わず立ち上がり、青ざめながら叫んでいた。
「違います! 私は本物です!」
「貴族(シャトーア)が凶賊(ダリジィン)に頼みごとをするのに、金品や利権ではなく、人を寄越した。だから、お前は捨て駒――そう考えるのが妥当だろう」
「そんな……!」
「更に、だ。鷹刀は藤咲家を助けなくても、お前を好き勝手できる。何故なら、お前はもう、俺の屋敷(テリトリー)に居るのだからな」
ちらり、と、イーレオは自分の背後に目をやった。そこには護衛の男、チャオラウがいた。
「俺がひとこと命じれば、このチャオラウがお前の足をへし折って、お前の逃亡を防ぐことも可能だ。いや、お前のすぐ傍にいるミンウェイだって、並みの男より、よほど強い」
低く魅惑的な声は、ゆっくりと迫りくる夕闇のように徐々にメイシアを追い詰め、彼女を黒い恐怖に染め上げていく。
「俺が何故、あっさりと、お前を屋敷に入れたと思う? ――恐るるに足りぬ相手だと思ったからだよ」
イーレオはそこでいったん言葉を切り、メイシアの足が震えているのを確認してから、口の端を上げた。
「万が一、お前が何者かの手先であっても、こちらの戦力を考えれば、捕らえるのは赤子の手を捻るようなもの。だから、ちょっとからかってやろう、などという欲望がもたげたのさ」
ぞくり、とメイシアの背に寒気が走った。
この男は、確かに凶賊(ダリジィン)の総帥なのだと、彼女は実感した。
イーレオが嗤う。
そして、ゆっくりと宣告する。
「お前は既に俺の物なんだよ。だから、お前の言う『取り引き』は成立しない」
イーレオの言葉の波が、ゆっくりと押し寄せては引いていく。そのたびに、メイシアは足元の砂がさらさらと奪われ、凶賊(ダリジィン)という海の底へと飲み込まれていくのを感じた。
膝から崩れ落ちるように、メイシアはソファーに倒れこんだ。スプリングが彼女の体重を柔らかく受け止めたはずなのだが、滑らかな革の座面は硬く、彼女の体と心を打ちつけた。
「……私を、どうするおつもりですか?」
「さて……? どうしようか? 想像以上に、お前は興味深い。頭もいいし、箱入り娘のくせに変なところで度胸がある。それに、まだ子供だが、女にしてやれば相当、化けるだろう。……適当に逃がしてやるつもりだったが、それも惜しい」
イーレオが口の端を上げると、端正な顔が壮絶に歪められた。
メイシアは言葉を失った。
白蝋のような顔で、呆然とイーレオを見上げる。
この世に鬼というものが存在するのだとしたら、いま目の前にいる男のようなものに違いない、と彼女は思った。残忍で、そして、それゆえに美しい。
沈黙の帳(とばり)が、ゆっくりと下ろされる。
ミンウェイが、気遣うようにメイシアに顔を向けた。
それから彼女は、イーレオに視線を送る――そこには明らかに批難の色が含まれていた。イーレオの肩が、ぎくりと跳ね上がった。
イーレオは、罰が悪そうに視線を泳がせ、ぼそりと言った。
「……冗談だ。いくらなんでも、俺はそこまで堕ちてない」
「おい、糞親父! 俺は、全身全霊で、真に受けたぞ!」
ルイフォンが食って掛かる。
「いや、だから、『取り引き』とか言っても、いいように手籠めにされるだけだ、という話を、だ」
息子の右ストレートを華麗に躱しながら、イーレオはメイシアに向かって、厳しくも魅惑的な笑みをこぼす。
「忠告だ、お嬢ちゃん。鷹刀が駄目だったからと言って、他の凶賊(ダリジィン)を頼ろうとするなよ。理由は……分かるな?」
本当にイーレオは海のような男だ、とメイシアは思った。その時々で様相を変えるが、常に広く大きい。
「あなたは……」
私のためを思って、わざと脅しをかけたのですね、と言いかけて、メイシアは声を詰まらせた。
いけない、そう思ったが、既にこぼれ落ちた涙を止めることはできなかった。
今、泣いたら勘違いされてしまう。被害者の涙に見えてしまう――メイシアは口元を抑え、嗚咽を漏らさぬよう必死に堪えていた。
それでも涙はきらきらと光の筋を描き続ける。
ルイフォンは攻撃の手を止め、イーレオを肘でつついた。小声で「いい歳して女を泣かすな」と囁く。大海のような男も、さすがに小娘の心の内を読むことはできなかったようで、困ったように肩をすくめた。
メイシアは慌てて掌で涙を拭い去った。
「お、お見苦しいところを……失礼いたしました」
メイシアは笑った。
澄み切った、心からの笑顔だった。
次の瞬間、メイシアの長い髪がふわりと宙を舞った。
つややかな黒絹のようなそれは床へと落ち、凶賊(ダリジィン)たちは我が目を疑った。
メイシアの白磁のうなじが露わになっていた。
「なんの真似だ?」
今までどこか余裕綽々の感があったイーレオが、初めて狼狽の色を見せた。
貴族(シャトーア)が膝を折る相手は、王族(フェイラ)のみであるはずだった。しかし、彼の目の前で、貴族(シャトーア)のメイシアが床に跪き、頭(こうべ)を垂れている。
作品名:di;vine+sin;fonia デヴァイン・シンフォニア 作家名:NaN