あなたが残した愛の音。
昼過ぎのカフェには女性が多く、見渡しても男性客は一人もいない。おしゃれな広い店内にはピアノ曲が静かに流れ、クリームパスタの匂いが漂っていた。
「食事は済まされてますか?」
「はい。私はコーヒーだけにします」
博之は、彼女の緊張が解けるように穏やかに話したが、愛音と言うこの女性は、硬い表情のままアイアンフレームの木の椅子を重そうに引いた。生易しい話ではないらしく、愛音は向かい合わせに立つ博之と、目を合わせていない。車の中で一通り挨拶を済ませていたので、社交辞令な会話をするにも話題が無く、愛音は無言で上着を折りたたんでいる。
二人は席に着いて、博之がカウンターにいる店の男性に、少し大きな声でコーヒー二つを注文した後、こう切り出した。
「川島先生の娘さんが、連絡をくれるなんて、想像もしていませんでした。それにもう30年近く、先生にはお会いしていません。何かよっぽど特別な事情があるんですね」
「本当にすみません。木田さんにはご迷惑をお掛けしたくないんですが、母が亡くなる前にどうしても、整理しておかなくちゃならないと思って、母には内緒で木田さんを探しました」
「よく分からないなぁ。先生からどのように僕のことを聞かれていたんですか?」
博之は、普段かしこまって人と話す時は、自分のことを「私」と呼称するが、初対面の女性が緊張しないように、敢えて「僕」とやわらかく言った。
愛音は口篭って、
「あまり詳しくは聞いていません。母は昔のことは話したがらない人ですので」
「先生のご主人はどうされているのですか?」
「母はシングルマザーでした。祖父母とも疎遠で、私を一人で育ててくれました」
「そうでしたか」
博之は、この後どう話を続けるべきか考えた。
「僕が中学の時の先生は、とても素敵な方でした。確か2学期末までの9ヶ月間だけでしたが」
「母は、1年間だけ中学で音楽の教師をしたと言っていました」
「ええ、そうでしたが、それは音楽の先生が、1年間の産休を取られたので、お母さんは代わりに僕の中学に来られたんです。それが1年の3学期の時でした。でもその時は僕のクラスの担当ではなくて、担当してもらったのが、2年の1学期と2学期だけだったんです」
「そうだったんですか」
愛音は少し嬉しそうな表情になった。
「当時のことを、話した方がいいですか?」
「はい。是非聞かせてください」
作品名:あなたが残した愛の音。 作家名:亨利(ヘンリー)