ひこうき雲
車大好き世代の俺の周りの連中は、シルビアだの180(ワン・エイティー)、スカイラインにセリカにRX-7といったスポーツカーや、ランクルやサーフ、パジェロにテラノなどの大型クロカン4WD。そしてセルシオやシーマのような10年落ちでも高価な高級車にスモーク張ってエアロを付けてインチアップしたホイールを履かせたいわゆるVIPカーなどなど、改造も含めてローンを組んで、思い思いのジャンルの車を楽しみ抜いた。そんな派手な友人たちの中で、軽自動車であるジムニーを乗り回す事は、時に劣等感を抱く時もあった。趣味性が高いとはいえ軽自動車。それをローンで買うことの恥ずかしさと、みんなで出掛ける時の場違い感。一般でも「軽はねー。」という時代だった。今でこそ装備も乗り心地も充実し主流になってきた軽自動車だが、あの頃の軽は、そういう立場だった。若かったからか好きで乗っていても気後れすることがあった。
でも、
-いい時代だった。-
沢山の笑顔と車たち、次々と楽しい思い出が俺の頭の中を駆け巡る。それぞれが結婚して家庭を持つと間もなくファミリーカーに乗換えていったが、俺だけはこの趣味な車に乗り続けた。もちろんその分妻がファミリーカーを乗り回しているわけだが、子供達にも妻にも愛されたジムニーさんは、もう復活することは無いだろう。
廊下に足音が響きだす。
時計に目を遣る。ぼちぼち人が出てくる時間だ。思ったより物思いにふけっていたらしい。
俺は、さっき来たばかりだと言わんばかりにノートPCのディスプレーを開き、電源を入れる。これでアツアツのコーヒーがあれば完璧だ。
「おはようございます。あれ、今日は随分早いんですね。」
「ああ、おはよう。ハムちゃんこそ、いつもこんなに早いの?」
久々に聞く弾むような声が新鮮だ。
連休中にどこに行ったとか、車が壊れたとか、多分公子にとってはとりとめもない話をしているうちに周囲から掛けられる朝の挨拶が増え、賑やかになって来る。太く元気な声に営業アシスタント社員の女性の黄色い声が混じり始め華を添える頃、始業10分前のチャイムが鳴りラジオ体操が流れ始める。流れは開発や設計部署のある工場と一緒だが、景色は華やかだ。やっぱり男だらけよりも女性が多い方が華やぐ。最初はいい歳して戸惑いさえ覚えたが、だいぶこの雰囲気に慣れてきた。
苦笑を隠すように席に戻ってメールチェックを始めた鳥井からのメールが俺の目に刺さる。
-【至急】【開発案件】受注について-
「メールは件名で相手の目に留まるようにしろ。」
俺の教えを忠実に守ってきたあいつのインパクトあるタイトルが言わんとしていることに鳥肌が立った。
開発案件を受注だと?そんな事は聞いていない。確かに顧客向けに仕様変更を設計に依頼することは多いが、あくまでオーダ設計に依頼する既存製品の「アレンジもの」だけだ。
メールを開くと挨拶もそこそこに本文が続いているようだが、そこに埋もれた「IPM」と「200A」、「冷却」という文字が目に入ってくる。未だに数値や部品名に反応するところが未だに技術屋だ。
IPMは「Intelligent Power Module」の略で電力をスイッチすることで制御するIGBTなどの素子と保護機能を組み込んでパッケージ化したもので、簡単に言えば従来インバータの心臓部の回路を構成していた様々な部品と配線を1つのパッケージに組み込んだ。というものだ。省スペース、組立、交換作業の効率化などなどいいことずくめの部品だ。そして「200A」は、定格容量。つまり出せる電流。そして「冷却」は、動作中に高温になるIPMには必須だ。
-いったい何があったんだ?-
メールを読もうとした途端に名前を呼ばれ、目の前の電話が転送音を鳴らす。まだ始業時間じゃないぞ。せっかちな奴だ。
「はい。お電話代わりました、柿崎です。」
-おはようございます。鳥井です。-
「おお、久しぶり。元気か?」
-ええ、出勤するまでは。始業前にすみません。メール、開封通知が来たんで電話しました。一刻も早くお耳に入れておいた方がと思いまして。-
「悪いな、開いたばかりで、まだよく読んでないんだ。開発案件受注って書いてあったけど。受注ってどういうことなんだ。」
言いながらメールをスクロールさせる指が固まる。
「おい、サンライズエレベータ納めのエレスリムシリーズ200Aインバータだと?そんなの出来るわけないだろう。」
エレスリムシリーズ。それは俺が開発で最後に手掛けたインバーターで、機械室レスエレベーター用の省スペース制御盤向けに開発した薄型インバーターだった。
-ですよね。こっちでは大騒ぎになってます。「ザキさんがいるのにどうなってんだ」って。何で受注しちゃったんですか?-
エレスリムシリーズは75A、100A、150Aの3タイプをラインナップしているが、200Aは存在していない。
いや、製品化出来なかった。というのが正解だ。
エレスリムの心臓部には日滝製のHPMシリーズのIPMを使用している。このHPMシリーズは200Aまで製品化されており、パッケージの形状・寸法も当然同一だった。75Aクラスのコンパクトなサイズで200Aまで使える。新世代のIPMだった。
だが、使う側にとっては大きな違いがあった。それは冷却方法だった。容量が大きくなればなるほど発熱量は大きくなる。150Aまでは、安価で省スペースなヒートシンク方式で冷却できた。ヒートシンクは熱を伝えやすいアルミ材に羽根状のフィンを多数取り付けることで空気と触れる表面積を広くして冷却する部品で、ここにIPMの放熱部を密着させる。密着させると言っても、何の事は無い。IPMの取付面が金属の放熱部品になっているので、そこに熱伝導性の良いペーストを塗ってヒートシンクに取付けるだけだ。ただこのヒートシンクがデカイ。タバコの箱ぐらいの大きさのIPMに対して弁当箱ぐらいの大きさのヒートシンクが必要になる。ヒートシンクをコンパクトにするために冷却ファンを取付けて強制冷却してもこのサイズだ。そうやって部品メーカーが保証する使用温度範囲内で使わないと、寿命が短くなるからだ。エレベーター向けの場合、最低10年は持たないといけない。
だが、ヒートシンクで冷却できるのは150Aまでだった。シミュレーションの結果、200Aを冷却しようとするとさらに大きなヒートシンクが必要となる事が分かった。薄型・省スペース・低価格を売りに開発しているエレスリムシリーズとしては許容できない大きさだった。
もっと冷却効率の良いヒートパイプ方式にすれば寸法的には実現の可能性はあったが、複雑な構造で高価なヒートパイプを採用した場合、部品調達だけでなく構造が異なる事から、製造工程、メンテナンスなどシリーズとしてのコストメリットが見込めないため200Aの開発は断念した。
なのに、なぜ、誰が?
「一体誰が受注したんだ、そうだ、仕決者は誰になってる?」
-諸岩一茂。ザキさんの部下ですよね?でも、承認者がザキさんじゃないですね。三谷課長の承認になってます。しかも、一般のアレンジ受注書なんですよ。-