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ひこうき雲

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 越えた。辛うじて坂を上りきったジムニーは、歩きならそこから先が下り坂になっている事に気付かないほど傾斜の緩い道を殆んど止まりそうな速度で進む。ギアをニュートラルにして踏みっぱなしだったクラッチを戻す。ニュートラルにしておけば、タイヤとは切り離されたままでエンジンが回転する。下りでも速度が上がらないのはオフロードタイヤの抵抗、道路との摩擦が大きいからだ。
 俺は路肩の広い場所を見つけてハザードを点けて停車した。
-お疲れさん。苦しかっただろうな。-
 ダッシュボードを撫でるようにしてエンジンを切った。
「大丈夫かな。」
 車から降りた妻が手にした日傘を開くのも忘れて呟く。
「大丈夫だよ。」
 俺はもう一度キーを捻り。エンジンを掛ける。
 セルモーターが苦しそうにゆっくりと回るがエンジンが掛る気配はない。バッテリーはあるのだからセルモーターの回転が遅いのは変だ。やはりエンジンがやられてしまったに違いない。そもそもオイル-金属同士のエンジンのシリンダーとその内部を動くピストンを滑らかに動かす潤滑剤-これが無かったら、金属同士が擦りまくる。
「大丈夫じゃ、ないかも。いや、大丈夫だ。ノリちゃんに電話してみる。」
 オイルか。
-あっ、-
 忘れてた。
 俺は、去年の車検の時、井川が言っていたことを思い出した。
-オイルが少し漏れているようだから、漏れ止めの充填剤は入れておいたけど。パッキンは安いんだけどエンジンを降ろしたりで修理すると大分金が掛るからね。殆どのらないだろうから気を付けながら乗ってみて。酷いようなら電話してくれ。-
 確かにそう言っていた。2、3ヶ月は気にしていたが、漏れが止まったようだったので、気にもしなくなっていた。
 何て馬鹿な事をしてしまったんだ。
 ジーンズのポケットから取り出した二つ折りのガラケーに親指を滑り込ませて片手で開く。電話するなら断然ガラケーが便利だ。すぐに番号を呼び出し通話できる。ポケットに雑に入れといても心配ない。持ち運びが楽なことも便利さにプラスだ。ガラケーを笑う奴は笑えばいい。ちなみに俺は格安SIMのスマホと2台持ちだ。
-はーい。どーもです。ヒロちゃん元気かい?-
 愛嬌のある声が響く。
「俺は元気なんだが、ジムニーが。動かなくなった。」
-で、どんなふうに?-
 友達の声から自信に満ちた落ち着きのある口調に変わる。さすがプロだ。しかも古い車はエレクトロニクスだらけの今の車に比べて得意だと言っていたっけ。
「変な音がするな。と思っていたらオイルの警告灯が点灯して、停車したら、エンジンが掛らなくなっちまったんだ。」
-そっか、分かった。今どこ?-
「八郷だ。吉生小の下からフルーツラインを吾国山の方へ走って最初の上り坂を上りきった先にいる。日曜日なのに悪いけど、来てもらえないか?」
-おう、お安い御用さ。どのみち個人経営には土日は無いから気にすんなよ。15分で着く。-
「悪いな。気を付けて」
 礼を重ねて電話を切った俺に、妻が「ゴメン」と俯く。
「何で?」
 と尋ねる俺に潤んだ瞳を向ける。
「私が、ジムニーさんで行きたいって言ったから。」
-そんな事は無い。-と言いながらも、少し前の俺なら、心のどこかで恨み節を唱えていたかもしれない。
-だが、今の俺は違う。-こんなにも大切な妻、自分の事よりも俺のことを想い、そして今も俺の心の痛みを自分のものに置き換えようとしてくれている。
「そんなことないよ。俺もジムニーさんで行きたかったし、楽しかったじゃないか。それにジムニーさんだってきっと喜んで走ってたんだよ。でも、」
 熱いボンネットを撫でる。
「そもそも俺が悪いんだ。きっとオイル切れなんだ。前の車検の時にノリちゃんにオイル漏れがあるって言われてたのに。ゴメン。」

 それから程なくして駆けつけてくれた「カーメンテ井川」のレッカー車に繋げられた愛車「ジムニーさん」の濃紺のボディーは「カーメンテ井川」のイメージカラーの黄色と赤を基調にした元気な塗装とは対照的に寂しげに見えた。旅の途中で脱落してしまったことを詫びているようにも見える。
「多分エンジンが焼きついている。エンジンを乗せ替えるが手っ取り早いが、古い車だからエンジンを手に入れるのは無理だ。廃車から取って来る手もあるが、マニアの多い車だから、廃車もすぐに嗅ぎつけられてあっという間に「どんがら」だけになる。そもそもこういう丈夫でマニアックな車を廃車にする理由はエンジンがダメになった場合が殆どだから、かなり厳しいかもね。ま、とにかく預かって見させてもらうよ。あっちじゃ車乗る機会無いんだろ?」
 黄色系の色褪せたツナギの肩を動かして頬の汗を拭いながらレッカーのエンジンに負けない大声で言う。
「そうだな、頼む」
 井川の言葉に力なく頷くしかなかった。とにかく見てもらうしかない。
「まあそう気を落とすなって。さ、乗って乗って。」
-ゴメンな-
 愛車に言葉を掛けて妻と共に井川のレッカー車に乗った。

 井川の事務所でお茶を貰いながら軽く近況を語り合っているうちに、井川のトークはいつも絶妙に上手い。俺と妻にも笑顔が戻って来た。それを確認して安心したかのように「駅まで送ってくよ。」と井川が立ち上がった。井川というの男は昔からこうだ。俺にはなかなかできない芸当だ。
 
 石岡駅に着くまでの30分間、車中での井川トークでさらに元気になった俺達は、普通列車に乗って北へ向かった。

「ジムニーさん、直るといいね。お金は掛ってもいいから、遠慮なく言ってね。」
心地よくクーラーの効いた車内で隣にぴったりと身体を寄せて座っている妻が囁くように言う。
「ありがとう。あとはノリちゃんに任せるしかない。いろいろあったけど、楽しいドライブだったよな。直ったらまた行こう。」
 膝の上のバックを抱えている妻の手に俺の手を重ねる。若い連中には「キモイ」光景かもしれないがオッサンにだってこういう衝動はある。若い連中と違うのは、それを他人の目につくところでしないってことだ。休日の夜、閑散とした車内には俺達の視界に入る他人はいない。
「うん。」
 妻がもう一方の手で俺の手を包む。
-相棒、また一緒に走ろうな。必ず走れるようしてやる。-
 向かい側のガラスに映る俺達。その向こうに故郷がある。相棒を置き去りにしてきた場所がある。反射して見えない景色に向かって俺は誓った。

作品名:ひこうき雲 作家名:篠塚飛樹