ひこうき雲
それにしても有田さんの教えが、営業一筋のこの人の心をも震わせた。やっぱり有田さん、あなたは凄い人だ。俺は一気に杯を呷(あお)った。食道から胃に心地よい熱さが流れ落ちていくと同時にあの厳しくも優しい顔が熱く浮かび上がってくる。
「残念ながらリーマンショックの不景気で実習生制度は無くなってしまった。今の若手は、また井の中の蛙になってしまうだろう。いや、もうそういう雰囲気になっている。技術も作る人の思いも知らずにね。
柿崎さん、あなたには2つのことをやってほしい。」
そこまで言った荒井は、一気に杯を干す。
「まず1つ目。
若い連中に一体感という文化を植え付けて欲しい。人は身近に敵を置きたがる、だが部門間でいがみ合っている時代じゃないし、そんな余裕はない。製品に対する思いを伝えて欲しい。
そして2つ目。これが本題だ。
近々、営業部の組織改革をやります。目的は営業技術課の強化。柿崎さんも知っての通り、今の営業技術課は、市場開拓の検討、新製品の事前売り込み、オーダー製品の営業、新技術の展開検討、技術的な顧客対応などだ。だから数を売ればいい。という普通の営業じゃあない。だけど、いろんなモノが電化されている時代に追いつけないことを思い知った。オーダー製品の営業、カタログに無い「まっさら」な仕様から打合せる。これは重い仕事だ。これじゃあ新しい分野の開拓に注力できない。
震災後、オール電化住宅が急速に普及したときにウチは完全に出遅れた。耐震基準の兼ね合いでの建て替えもあるが、バブルの頃に流行ったオーダー物の店舗用冷蔵庫やエアコン、エレベーターその他あらゆる置き換え需要がオール電化住宅の流行とカブった。それでもオーダー製品だからという理由で全て営業技術課が背負い込んだ。結果、オール電化の流行に乗り切れ無かった。今は少しずつ売り上げを伸ばしているが、日滝のブランド力をもってしても出遅れた製品でシェアを伸ばすのは難しい。
だからオーダー物を各々該当する製品を担当してる課に移す。例えばエアコンなどの家電品のオーダー物は営業一課、という具合にね。そして営業技術課には新しい分野の営業を先取りしてシェア獲得に注力してもらう。製品化してシェアを獲得したら、他の営業課にその製品を任せて、また新たな分野の電化に手を付ける。
このサイクルで常に日滝に新しい製品の需要を提案し、売っていく。 このためにはエンジニアの目と知識を営業技術課全員が持たなければならない。
柿崎さん。あなたには、新しい営業技術を育てて欲しい。」
そこまで一気にまくし立てるように熱く語った荒井部長の口の端には、唾が泡を作っていた。荒井はお手拭きで口を拭くと通りかかった店員に水を頼んだ。
「分かりました。いくらでも教えますよ。」
私は背筋を伸ばして深く頷いて見せた。
「それだけじゃない。」
と言ってから、受け取った水を一口で半分まで飲んだ荒井は、後を続けた。
「あなたには営業技術課の課長をやってもらう。あなたのこれま 」
「ちょ、ちょっと待ってください。私が課長?物を売ったこともないのに、そんなの無理です。出来ません。」
俺は慌てて荒井部長の言葉を遮った。
これ以上喋らせてはならない。
あまりにも唐突な部長の言葉に俺の自己防衛本能のブレーカーが動作した。
だが、荒井は止まらない。
「出来ないじゃない。やるんだ。やるんです。これには長年開発を続けてきたあなたの知識と経験が必要なんです。この分野には使える、とかどれぐらい開発コストと時間が掛かる。とか、新たな分野に踏み込む為の嗅覚と判断が出来る人間が必要なんです。補佐として大田を副課長に付けます。あなたの弟子でしょ?営業で最後の。そして育ててください。大田とそれに続く若手を。改革まではパワー装置営業課副課長として三谷さんの元で営業のイロハを見てください。そして、新しい営業技術課で使えそうな若手を見繕ってください。これには「みなとエンジニアリング」の未来が掛かってる。」
ヤバい。この人は本気だ。
俺の視界の隅で三谷課長が大きく頷いて見せる。
この人の癖。
それは熱いプロ意識だ。それが俺の製品に対する熱い心を震わせる。俺が仕舞い込んで堅く蓋をしていた心を「起きろ」と揺する。
起きちゃダメだ。俺の自己防衛本能が叫ぶ。
コバンザメのように親会社の日滝に吸い付いている子会社クソみたいな「みなとエンジニアリング」派遣になってから「開発は穀潰しだ」とまで言われて搾取され続けてきたんだ。挙げ句に俺達の仕事を「日滝のためにやったのであってウチの会社には何もやっていない。」一蹴して評価してくれなかったじゃないか。
技術者としての俺を育ててくれ、評価してくれたたのは日滝だ。
そもそも荒井部長。あんたなんか日滝の天下りじゃないか。なんでそこまで。あんたなんかが。何で!
「何で、何でそこまでこの会社を思うのですか?部長は日滝本体から来たんですよね?」
言ってしまった。この場で言って良い言葉ではない。
荒井は俺から目を逸らして下を向いた。そして自ら徳利のまま酒を呷ってから俺を真っ直ぐに見つめた。
「俺は、この会社に拾ってもらったんだ。確かに俺は日滝本体から来た。営業をやっていたんだ。誇りを持ってね。だが、手掛けたプロジェクトで大赤字を出した。明らかに見積りの甘さだった。ろくにその分野の技術を知らずに安くしかも短納期で受けてしまった。それじゃ無理だ。という技術屋の声も泣き言に聞こえた。結果、客のプロジェクトは大幅に遅れ、日滝はペナルティーを取られた。噂では、開発の主任が過労で倒れ、その後亡くなったそうだ。」
徳利を握る手は力が込められて白み、その目はみるみる赤く潤んでいった。そういう営業はどこにでもいる。反吐がでるほど嫌いな人種だ。
「俺は天狗になっていたんだ。俺はダメなやつだ。自信も信頼も無くし、日滝の中で職を転々とさせられた。最悪だった。だが仕方がない。悪いのは俺だ。俺は自暴自棄になっていた。自分が許せなかった。でも営業が好きだった。営業の仕事に誇りを持っていた。もう一度営業をやらせてくれたら、きっと上手くやれる。やってみせる。俺はもう天狗にはならない。でも日滝は俺に営業をやらせてはくれなかった。
そんな俺を拾ってくれたのが「みなとエンジニアリング」だった。俺にもう一度営業をやらせてくれた。そして有川さんに会ったことで知識だけじゃなく全体を考えることの大切さを確信した。
俺は、この会社に恩返しがしたい。
知ってるよ。柿崎さん。あなたの開発としての仕事が「みなとエンジニアリングのためには何もしていない」と言われてずっと評価されなかったのを。開発が派遣扱いになってから、そういう方針になったんだ。俺は危機だと思った。開発の技術者がいられなくなる。有川さんのDNAが他へ行ってしまう。ってね。冨川にも言ったんだけど、ダメだった。それはアイツも分かっていた。だが、給料の原資は決まっている。派遣先の為に活躍している人間の評価を上げてしまったら、自社のために頑張っている人間がヘソを曲げる。そしたら売り上げに直結だ。柿崎さん達が成果を出しているのは知っていたが評価してやれなかったんだ。