尖閣~防人の末裔たち
兼子は小脇に丸めた海図を挟むと船橋を出た。狭くて急な階段を軽やかに降り、会議室に向けて船尾の方へ狭い廊下を歩いていると、数メートル歩いたところでパッと視界の端に光沢のある銀色の何かが映り、咄嗟に立ち止まる。左の部屋から出て来た乗組員が「あっ、」
と言って立ち止まる。先ほど船橋に来た、「気の利く」若い乗組員だった。ステンレス製の大きめなお盆に7つのグラスが載っている。中身はアイスコーヒーだった。
兼子は、ぶつかりそうになったこと、ぶつからなくて良かったということ、そしてコーヒーをこぼさなくて良かった。ということよりも、何よりもこの若い乗組員が気を利かせて「うみばと」のクルーにアイスコーヒーを淹れてくれたことが嬉しかった。ただ一点気になる事はあるが、、、
「すまん。大丈夫か?お~、ありがとう、ヘリのクルーに出してくれるのか?」
嬉しそうに兼子が声を掛けると、その乗組員は「ええ、」と言いながら頷いた。
「君は気が利くな、そういう他人の為に行動できる人間が海保にはもっと必要なんだ。人命救助でも何でもそう。ウチの仕事っていうのは、他人の為に行動してるという点で共通なんだ。
そこでだ、、、申し訳ないんだが私の考えを聞いてくれるか?」
勢いよくその乗組員を褒めると、語尾は対照的に穏やかな口調で兼子が言った。
「なんでしょうか?」
若い乗組員の表情に不安の色が見え隠れする。
-あれっ、言い方が勿体ぶり過ぎて通じなかった?不安を与えちまったか?-
兼子は、その乗組員の緊張をほぐす為に、笑顔で軽く肩を叩くと、
「いや、君のことは褒めてるんだよ。ただ、コーヒーはホッとするからリフレッシュにもなるし、眠気覚ましにもなる。だが、利尿作用が高いんだな~。あいつら着船するなりトイレに行かなかったか?これからの飛行は長時間にはならないかもしれないが、何が起こるかも分からない。上空でションベンに行きたくなったら気の毒だろ?そこで、ペットボトルのスポーツ飲料の方がいいんじゃないかと思ってね。すまんな。」
と申し訳なさそうに言うと、乗組員は若者らしい無邪気な表情を見せ、
「なるほど、すみません。そこまで考えていませんでした。ありがとうございます。勉強になりました。。スポーツドリンクを出します。」
と言って一礼した。
「そうか。せっかく淹れてくれたのにすまんな。君達で飲んでくれ。」
「はい。ありがとうございます。」
と一礼してまた出て来た部屋に戻って行った。
-あいつはきっといい海上保安官になるだろうな。その謙虚さと心遣いを忘れるなよ-
兼子は、若者の背中に向けて心の中でエールを送った。
数歩歩いて会議室の前に辿り着いた兼子は、ノックしてドアを開けた。
立っている者、座っている者バラバラだったが、兼子が入ってきた瞬間に誰からともなく機長の浜田を基準にサッと整列した。懐かしい面々が凛とした表情で兼子を見つめる。
「「うみばと」浜田主席操縦士以下5名。お世話になります。」
と言うと、一斉に敬礼をした。
兼子も敬礼をしながら全員を一瞥してから静かに手を降ろした。
「あれ、2人足りないな。」
兼子が聞くと、
「はい。整備員2名は、ただ今作業中です。間もなく戻ると思います。」
整備として同行してきた村田と高田は、着船してエンジンを止めると同時に工具箱を手に機体の整備を行っていた。
「了解。久しぶりだな。遠いところ急いできてくれて感謝する。みんな元気だったか?」
と、1人ずつ握手をしながら声を掛けた。
「震災の際には大変お世話になりました。みんな元気です。船長は変わりありませんか?」
浜田が尋ねると、
「大丈夫だ、マスコミには大分責められたらしいが、いかんせん海の上が多いからな、気にしないで済んだよ。」
と、兼子は屈託のない笑顔を見せた。そして浜田から視線を昇護に移すと
「おぉ、倉田君、立派になったな~。君のお父さんがあの「いそゆき」の艦長とは、世の中の狭さに驚いたよ。お父さんには、いつもこの海域で世話になっているんだ。ホントは一緒に飲みに行って話をしたいくらいなんだが、いかんせん顔も合わせたことがなくてな。よろしく言っておいてくれ。」
両手を添えて堅く握手をした。
「お久しぶりです。こちらこそお世話になっております。」
いきなり父の話を持ち出された昇護は、戸惑いで月並みな返事しか出来なかった。兼子船長直々に感謝されるほどの父の活動って何なんだろうか?法律や、中国への配慮とか何とか言う政治家の保身や、点数稼ぎのために身動きが取れない。。。極論を言えば、海自は後ろに引っ込んでいて何もしてないんだろ?父には「税金泥棒」と、申し訳ない事を言ってしまったが、やはり多少なりともそういう気持ちはまだ俺の中には残っている。その父はこの海域で何をしているのだろうか?どんな思いでこの海域にいるのだろうか、こないだ酒を酌み交わしたのに、俺は父の思いを何も聞かなかった。というより知ろうともしなかった。挙句の果てには俺が一方的に暴言を叩きつけて御開きになってしまった。俺は酷い息子だ。。。昇護は俯けた顔を上げると、握手は終わりみんながイスに座って打合せを始める準備をしているところだった。
日焼けした若い乗組員が会釈をして部屋に入ってきて、ペットボトルに入ったスポーツ飲料を1人ずつ手渡してくれた。
昇護は、こりゃあ、ありがたい。と素直に喜んだ。窓越しでエアコンが効いているとはいえ、直射日光を受ける機内は、けっこう喉が渇く、ペットボトル蓋があるので少しずつ飲めて持ち運びもできる。少し飲んで機内へ持ち込もう。
作品名:尖閣~防人の末裔たち 作家名:篠塚飛樹