尖閣~防人の末裔たち
22.日の出
古川悟は、アパート1階の集合ポストから大小入り乱れた郵便物抱えると、埃っぽく薄暗い階段を上がっていった。いつもの如く郵便物の束を崩さないように気を遣うことに苛立ちを覚えるが、今夜は、ちょっとでも落としたら全部捨ててしまいたい程気分がささくれ立っていた。お盆に入り、なお残暑が勢いを増す日中の取材活動の疲れがあるのにも関わらず、夜は雑誌の編集者との打合せ、そして飲み会、さらに2次会、3次会と、休む間もなく引きずりまわされ、もう12時を回ってしまっていた。明日は沖縄へ向けて出発するので早めに準備をして、体を休養させて万全の取材体制を取りたかったのに、こういうときに限ってどうでもいいが断りきれない用事が入ってしまう。フリーで仕事をする身の辛さって
今年最も集中したいネタは、元海上幕僚長の河田 勇率いる政治団体「目覚めよ日本」が尖閣諸島で繰り広げる活動の独占密着取材だった。再び河田の船団が尖閣へ向かうので古川は同行するために明日、石垣島へ向けて出発する予定だった。明日は午後出発なので、明日の午前中に再度準備しよう。明後日の明け方には尖閣へ出発だ。明日は殆ど眠れまい。だから今日は早く休んでおきたかったのに。面白くもない2次会、3次会に引き回されこの体たらくだ。大体なんなんだ今のホステスやキャバ嬢は、ろくに話題も出せないから会話にならない。客が楽しい話して場を盛り上げて、何で金払って気まで遣わなきゃならないんだ。みんな揃って顔とスタイルがイイのがせめてもの救いだ。昔、新聞社に勤めていた頃に先輩の権田とハシゴした頃が懐かしい。あの頃の方がまだマシだった。
乾いた舌打ちを数回打ちながら自分の部屋のドアにたどり着いた。鍵を開けるとベージュ色に厚塗りされた今時珍しい重い鉄製の扉を開く。明かりを点けて狭い廊下に足を踏み出した。その弾みで、抱えていた郵便物がバランスを崩して数枚の葉書と封筒が床に落ちた。
-ったく大事な取材の前に。。。くだらない飲み会で時間を無駄にしちまった。挙句にこれかい。
「あ~、ムカつく」
郵便物が崩れたことで、また後悔と苛立ちの無限ループが始まろうとしていた。古川が八つ当たりで床の郵便物を踏みつけようとしたが毒気を抜かれたように静かに足を別なところに置いた。そしていちばん上に見えていた葉書を手に取った。
切手の部分に風鈴が印刷された涼しげな葉書には宛名に「古川 悟 様」と線は細いが形の良い文字で書かれていた。3年前までは、毎日のように慣れ親しんできた文字だった。誰の文字だか見れば分かる。
裏返すと、残暑お見舞い申し上げます。と社交辞令が印刷されていたが余白には
-尖閣でのあなたの記事をよく拝見しています。益々の御活躍をお祈りしています。どうぞご無事で
と几帳面な文字が手書きで書かれ、文末に「田中 悦子」と小さく書かれていた。
「ったく、お前には祈る権利はねーっつーの。」
と独り言を呟いた。悦子は、古川の別れた妻だった。
俺は、今日は飲みすぎた。独り言が多いし、イライラしてる。古川は分かってはいたが何故か今夜はいちいち突っ込まずにはいられない。
「おれが無事だろうが死のうが、お前には関係ね~。まっ、い~か」
さらに独り言を口にすると、廊下に散らばった郵便物には目もくれずに、その葉書だけを持って廊下を抜けて仕事部屋に入る。
悦子は、離婚してからも、冬は年賀状、夏は暑中見舞いまたは残暑見舞いを毎回古川に送っていた。そして、毎回丁寧に手書きで宛先とコメントが書かれていた。最初は年賀状だった。コメントには
-あの人とは、すぐに別れました。もう一度話をさせてもらえませんか
と書かれていた。文字の線が細い分、文字が震えていることに古川は気付いた。どんな想いで悦子が書いてきたかは想像に難しくない。だが、敢えて古川は、無視した。以来、二度とそういった内容のコメントはなく、古川を気遣うようなコメントのみになったが、毎回欠かさず時期が来ると葉書を送ってくる。古川は1度も返事を書いたことはなかった。男の意地なのか、プライドを傷つけられた怒りなのか、古川は自分の気持ちが分からなかった。唯ひとつハッキリしていることは、返事もないのに毎回葉書を送ってくる悦子の気持ちが、理解できないということだった。
古川は、そんなことを考えながら仕事机の前まで来ると、机の引き出しを開けた。引き出しの中の同じような葉書の束の上に届いたばかりの葉書を載せた。葉書の束はすべて悦子から届いたものだった。
あ、それともうひとつ分からないことがあった。
-どうして俺は、悦子からの葉書をずっと捨てずに保管しているのだろうか。。。
古川は苦笑すると、さっきまでの苛立ちがスーッと引いていくのを感じた。酔いも程よく覚めてきたのかもしれない。
古川は同じ引き出しの中にある航空機のチケットを手に取り、何度目かになる確認をした。明日は、14時15分羽田発-石垣行きの日本トランスオーシャン航空73便に乗ることになっている。午後に出れば間に合う。明日の準備は、明日の午前中にやればいいか。とにかく今日は寝よう。尖閣の取材は大事な取材だ。酔って準備して間違えたら大変なことになるし、朝は早いし結構ハードだ。体も休めておかなければ。古川は自分に言い聞かせるとそそくさとシャワーを浴びた。
新聞業界大手の産業日報時代の先輩である権田が紹介してくれたこの仕事は、防衛担当だった古川の得意分野であり、好きな分野だった。もちろん権田を介して記事は産業日報が優先的に扱ってくれるから、食いっぱぐれはない。それにネタがネタだ。河田と共に名が売れることは間違いない。
作品名:尖閣~防人の末裔たち 作家名:篠塚飛樹