尖閣~防人の末裔たち
不意に背中から声を浴びせられたと思った瞬間に右肩をポンっと叩かれた。切なく物思いにふけっていた昇護は素直に驚くと共に、気持ちよく居眠りをしているところを駅員に揺り起こされてしまった酔客のように、邪魔するなという目で相手を見そうになって、引きつった笑顔に何とか気持ちと表情を切り替えた。機長の浜田だった。
「な~んだ。浜田さんですか。びっくりさせないでくださいよ。」
昇護は、相手が浜田と知って今度は心からの笑顔を浮かべた。
「いやさ、飯食ったら急に居なくなっちまっただろ。何でかな~って思ってさ。あ~、ここがいちばん携帯の電波がいいって思って来やがったのか?んな訳ね~だろ~。バカかお前、パイロットだって技術屋だぞ。」
浜田は、景気良くゲラゲラと笑った。
「そんなんじゃないですよ。俺だって、それぐらいは知っていますよ。」
昇護は少しすねた振りをしつつ答えた。後輩をからかう浜田の言葉は相変わらず鋭く、切れ味が良い、傷口が荒れたり広がることなくスッと相手に入っていきユーモアのセンスを引き出し、引き上げる。浜田は、そうやって、後輩たちに先輩たちに上手く育てられるコミュニケーションのコツを教えてきたのだった。もちろん昇護も例外ではない。
「お前、彼女と会ってから、その後連絡はあったのか?」
何言ってるんですか~?とはぐらかそうとして口を開きかけた昇護は、浜田の眼差しの変化に言葉を飲み込んだ。少し、潤んだその目には、哀れみとも同情とも、怒りともとれる浜田の心が表れていた。
「いえ、全然です。。。メールすら全く来ません。。。」
昇護は、素直に答えた。今の気持ちを表すかのように自然と低い声で答えていた自分に、何で今まで浜田に相談しようと思わなかったのだろう。と自問した。からかわれるから相談したくないと思っていたのは確かだ。だが、このネタでからかわれたことは一度も無いことに今、気付いた。
「ったく、水臭せーな。黙っていやがって。ま、様子見てればどうなってるかおおよそ分かるがな。14時には出港だ。出港すれば、その携帯は電話もメールもできない。文鎮代わりにしか使えん。1ヶ月は、文鎮代わりだな。」
浜田は失笑混じりに静かに言った。
昇護も
「確かに、文鎮ですね」
と力なく小さく笑った。
「出港の前に、お前に言っておきたいことがある。」
浜田が昇護の目の前に回り、真っ直ぐに昇護の目を見つめた。その目には、もう笑みはなく、先ほどの哀れみとも同情とも、怒りともとれる潤んだ厳しい目になっていた。
「はい。」
昇護は返事をして固唾を呑んだ。
浜田がゆっくりと語りだした。
「お前が悩む気持ちは分かる。俺も経験したことだからな。だから敢えて言う。返事が無かったなら、もう忘れろ。乱暴なようだが、これから1ヶ月間は、彼女のことは一切合切気にするな。気にしても気にしなくても結果は同じだ。何もできない。だったら忘れろっ。気にするなっ。お前は海上保安官であり、そしてパイロットだ。みんなの命を預かっている。最近のお前を見ていると何処かキレがない。危なっかしいんだよ。
いいか、集中するんだ。心配しても仕方がないことに気を揉まれるなよ。これから行く尖閣諸島は、何が起こるか分からない。任務を全うしつつ、みんなで無事に帰って来るんだ。分かったな。」
昇護は、浜田の心を尽くした言葉を聞いている内に胸の奥がだんだん熱くなってくるのを感じた。同時に恥ずかしさが込み上げてきた。確かに任務への取り組みが曖昧というか、雑になってきている感はあった。その根底には「何で俺が尖閣に、何でこのタイミングで」という無念があるとは考えていなかった。いや、考えたくもなかった。俺はこの仕事がやりたくて頑張ってきた。そしてこの仕事に誇りをもっている。辛いときにはいつもそういう言葉を自分自身に掛けてきた昇護にとって、美由紀とのことが引っ掛かっているとは認めたくなかった。だから自分の仕事の質が悪くなったのを気のせいだと思っていた。暑いから、中だるみだから、寝不足だから。。。理由は何でも良かった。美由紀とのこと以外のことであれば何でも良かったのだ。しかし、浜田をはじめ「うみばと」のクルーにには図星だったのだ。「うみばと」というヘリコプターの中で、命を預け合う。運命共同体のチームにあって、昇護は、私情を持ち込み過ぎた。それは20代の後半に足を踏み入れたばかりの若さゆえの未熟さでクルーの目に映ったのだろう。そして、昇護が自分で克服するのを見守ってくれていたのだろう。期待を込めて。でも昇護は駄目だった。このまま尖閣へ向かったら手遅れになる。そして出港の間際になって、浜田が昇護を諭したのだった。ギリギリまで見守ってくれていたのだが、期待に応える事ができなかったのだ。そのことに今気付いた昇護は、情けない自分に恥ずかしさが込み上げてきたのだった。だらんと開いていた手を握ると自然に力がこもってしまった。自分が情けない。。。昇護は一度遠く水平線を見つめて気分を落ち着けようとする。そして浜田の目をもう一度見た。父のような目をしている。と直感的に思った。息子が何かに失敗した時に見せる全てを受け止めるような寛容な眼差し。あっ、昇護の気持ちの中に新たな気付きが起こった。逆だったらどうなのだろうか、俺がもし浜田さんだったとしたら。。。きっと、克服するように期待して見守るよりも、信用しなかっただろう。私情に左右されるような男に命を預けるわけにはいかない。。。この人達は。。。ここまで俺を信用してくれ、育ててくれているんだ。まるで家族のようだ。
昇護は、強く握っていた手を開くと浜田の右手を両手で握り締め、
「ありがとうございます。頑張ります。」
と力強く言った。
浜田は、驚きで一瞬目を見開いたが、笑顔を浮かべて昇護の手を握り返すと左の手で自分の右手を握っている昇護の手を優しく覆った。そして、握手を解くと
「よし。しっかり頼むぞ」
と優しく応えて昇護の肩を掴んで揺すった。その力強さに昇護は、仲間の信頼の強さを感じた。
美由紀は、お気に入りの愛車NBOXを運転してファミリーレストランGUSTOの駐車場に入っていった。今日がお盆に入った8月13日のためか、道路はいつもより混んでおり、他県ナンバーの車の比率が高かった。美由紀は、混んでいて思ったより時間が掛かってしまったと思いながらも、道路同様いつもより混んでいるGUSTOの駐車場に空きを見つけると、「ラッキー」と呟いて、駐車スペースにバックで車を入れる。NBOXに乗り換えてから、小回りの良さも相まって、駐車場ではきちんとバックで駐車するようになった。リアハッチドアの窓上部に標準装備されたリアアンダーミラーの助けも大きかった。このミラーでいちばん気になる車後方の足元を見られるため安心してバックできる。狭いところも安心して小気味良く運転できるので、美由紀は運転すればするほどNBOXへの愛着が増していくのを感じていた。
美由紀は車のエンジンを止めると、助手席に置いたバッグを膝の上にのせ、中から携帯電話を取り出して開いた。1通の未読メッセージがあった。それは広美からのメールだった。
-先に着いたので、ドリンクバー付近の窓際の席にいるよん-
作品名:尖閣~防人の末裔たち 作家名:篠塚飛樹