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尖閣~防人の末裔たち

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21.想いよ


 最初は断片的に音楽が聞こえてきたような気がして、何の音楽だろうと思考がのんびりと活動を始めた。どこかで聞いたことがある音楽だが随分電子音っぽいな~。ぼんやりと考えているうちに次第に音が大きくなり脳全体に迫ってくる気がした。ハッと目を見開いた冨岡美由紀の耳が鮮明な電子音のハーモニーとしてその音を捉え、そして、そのリズムとは無関係に響くバイブレーターのモーター音にやっとそれが目覚ましとして自分がセットした携帯電話のアラーム音だと気付いた。手を伸ばして枕元に置いたはずの携帯電話を探す。体を起こして目で見ながら探せばすぐに見つけられるのは重々承知していたが、それを拒むもう一人の自分の方がいつも勝っていることも美由紀は知っていた。意識が心地よいまどろみから離れハッキリとしていくなかで今日は休日だということを思い出した美由紀の心には休日なのだからすぐに起きる必要はないよ。という甘い自分の声が新たに起こり説得力を増していった。こんな姿を生徒たちには見せられないな。と多少の自己嫌悪を感じつつ、それでも美由紀は探すというより手でまさぐるように布団の上で腕を這い回させていた。時間が経てば経つほど携帯電話のアラーム音が大きくなった。やっと手が触りなれた携帯電話のボディーに触れると、もう一方の手を先程までの動きからは想像できないような素早さで携帯電話に近づけて一気に折りたたみ式の画面を開くとボタンを押してアラームを止めた。携帯電話を見つけてからアラームを切るまでの動作は瞬間的な早さで、まるで反射神経だけで行動しているかのようだった。そんな自分に半ば呆れつつもこのまどろみが美由紀は好きだった。しかし、携帯電話のアラーム音と、夏の眩しい日差しをまぶたに受け、覚醒してきた感覚が汗ばんだ体の状態と暑さを訴えてきてもはや寝起きのまどろみに浸ってはいられなくなってきた。
 よいしょ。と自分に掛け声をかけてベッドから起き上がると、たどたどしい足取りで数歩2、3歩進んで机の上の手帳を開き今日の予定を確認した。2年前の誕生日に昇護にプレゼントしてもらったこの手帳は、A6サイズの小振りなシステム手帳で淡い緑色のパステルカラーで色に似合わない柔らかな皮の感触が美由紀のお気に入りだった。システム手帳はバインダーで紙を綴っているので開いたページが閉じてしまう心配はないため安心してページをめくる指先が心地よい。
見開きで1週間の時間軸が縦に刻まれたページで今日の日付を細くしなやかな人差し指で確認するように優しくなぞる。この縦に時間軸が並んだ用紙はバーティカル式と言い、空き時間がひと目で分かって計画が立てやすいんだ。と昇護が勧めてくれたのだった。それまではメモ帳程度にしか手帳を使っていなかった美由紀は半信半疑で使い始めたが、実際に使ってみると1週間の時間管理が明確になり、多忙な小学校教師の美由紀にはなくてはならないアイテムとなった。
手帳の13:00~15:00の欄には「広美とランチ。GAST石岡」と几帳面な文字で記入してあった。2週間前、久々に電話で広美と話し、会う約束をしたのだった。

 GASTはファミリーレストランのチェーン店でドリンクバーを注文すれば、食事をした後も飲み物を飲みながらゆっくりと話ができる。お昼の時間帯は混んでいるから他のお客さんもいるし占有するのは気が引けた。ゆっくりドリンクバーを飲みながら話をしたいから昼時のピークを避けて、13時からと言い出したのは美由紀だった。すると、広美も子供を実家に預けて行くから子供にお昼もあげられるし丁度良い。と賛同した。美由紀は違和感を覚えた。昔の広美だったら。「お腹がすいて我慢できないよ!」と多少はごねるところだった。それどころかこのランチの予定を決めた時、このレストランの名を真っ先に言い出したのは広美だった。何よりも安さが魅力なのだと広美が言っていた。数年振りに会うのだから懐かしい店に行きたいと思っていた美由紀が声を落とすと、
「今は専業主婦だから節約しないと旦那に悪いからね。」としおらしく付け加えた。派手好きな広美も結婚して変わったんだな。と美由紀は思った。しかも広美には1歳の息子までいる。広美の価値観の変化というよりは、まだ結婚もしておらず、当然子供もいない自分とのギャップに少なからず衝撃を受けた。若い先生で子育ての経験もないから仕方が無い。父兄の間にある噂を耳にしたことはあったが、それは若い女性教師にとっては代名詞みたいなものだと普段は全くそういったことを気にしてこなかっただけに、美由紀は広美との差を実感したのだった。その自分は結婚について何が大切かを考えることができず、逃げ出すこともしたくない。決断すらできずに広美に相談しようとしている自分に美由紀は不甲斐なさを感じた。

 美由紀は細い皮のバンドの腕時計を細い手首に付けると時間を確認した。8時17分だった。12時に家を出れば十分に間に合うな。と自分に念を押すと、鏡に向かうでもなく朝食を食べに1階へ降りていった。

 巡視船「ざおう」で午前の課業を終え、昼食を取り終えた昇護は、飛行甲板に出ていた。眩しい陽光に焼かれるような甲板の照り返し、そして小刻みに揺れる水面はギラギラとその陽光を細かく幾多にも反射する。昇護は、焼かれるような正午の日差しに溢れ出す汗を拭うこともせず、2度、3度と深呼吸した。そして間もなく出て行く佐世保の港を見渡した。昼の港は以外と静かで、昇護は予想以上に気持ちを落ち着けることができた。
 昇護は、美由紀にプロポーズして約半月が経つが、美由紀から一度も連絡は無かった。昇護は何度も美由紀にメールを打とうとしたが、プロポーズすることで、結果として結婚に対する美由紀の悩みを始めて聞いた昇護には、それが出来なかった。美由紀の気持ちは、昇護と夢が叶った今の仕事の間で微妙なバランスを保っているように昇護には思えた。そう、まるで紐の上でコマを回しているような微妙なバランス。止まっていてバランスしているのではなく、回転という動きと微妙にバランスをとっている危うい状態だと思っていた。ちょっと出も息を吹きかければあっという間に崩れてしまうバランス。そして落ちたコマは二度と戻らない。とてもこちらからは連絡できない。美由紀と別れて2~3日で昇護は、携帯を開いてメールの受信有無を確認するだけでは納得出来ず、メールのマークが表示されたボタンを長押してメールが携帯に届いておらずセンターに預けられた状態になっていないか、まで気にするようになってしまった。昇護はすっかり携帯のメールチェックをするのが癖になってしまった。昇護は、そんな自分を女々しいと思っていたが、気になる気持ちは抑え切れなかった。そんな癖ももう終わる。出港して陸を離れたらもう携帯は繋がらなくなる。戻ってくるまでの1ヶ月間は美由紀がどう答えを返そうと昇護には届かない。それが最悪の答えだったとしても。。。
 これが最後だ。と、昇護がポケットの中の携帯を握り締めたとき
「おいっ、何たそがれてんだ、こんなにギラギラ暑いのによ。」
作品名:尖閣~防人の末裔たち 作家名:篠塚飛樹