尖閣~防人の末裔たち
65.詫び
魚釣島に単独で向かう護衛艦「あさゆき」の艦内は緊張に包まれていたが、艦の奥深くに位置するCICの緊張は、他部署の比ではなかった。それは、時間の感覚がなくなるほど昼夜を問わず薄暗く、周囲が何も見えないからなのか、それとも、情報が見えすぎるからなのか。。。少なくとも今のこの緊張はこの両者によるものだろう。
「艦長。自衛艦隊司令部から入電です。」
その中にあって、いつもと変わらない根本2尉の声が響いた。
「読み上げてください。」
根本に指示を出した艦長の梅沢2等海佐は、この局面においてさえ、根本への命令に敬語を混ぜてしまう自分の未熟さに内心毒気付く。あと数ヶ月で退官を迎えるベテランの根本は、この状況にも全く動じていない。その雰囲気が、「空気を創る」。
「空気を読め」とは、一般に広く言われることだが、それは、古くから作られてきて定着している常識、人付き合いの常識、新たな常識など、さまざまな常識の中で、それを乱さず、上手くやれ。ということである。しかし、相手によって、天候によって、要因は様々だが防衛から救難までこなすこの組織では、いつ、どこで、何が起こるかは分からない。常識も通用しない。まさに神のみぞ知る。いや、神でも予測がつかないだろう。それに対処するために日夜訓練に励んでいるのだが、訓練は訓練であり、実際は訓練では味わえないことが人間の心理に発生する。訓練で十分に出来ることを実際でも難なく実行するためには、この心理を良い方向に持って行くことが重要なのである。それが「空気を創る」ということなのだ。根本も幹部とはいえ、この面でも艦長を良くサポートしてくれているということを梅沢は知っている。そしてこの瞬間もサポートされていると言うことは、根本から見て「自分には出来ていない」ということも。そして、自分を最後まで育てようとしてくれていることも。。。その遠慮が敬語での命令につながる。
また倉田さんに笑われるな。。。
先輩であり僚艦「いそゆき」の艦長だった倉田の悪戯っぽい「しかめっ面」が瞼の裏に浮かび、苦笑しそうになる。
その表情を続く根本の報告が梅沢の苦笑しかけた表情を中途半端に凍り付かせる。
「発;自衛艦隊司令部
宛;護衛艦「あさゆき」
電文;
魚釣島沖の領海に進入中の空母1隻を含む5隻からなる中国艦隊により、魚釣島は攻撃を受けつつあり、国土防衛のため、速やかに本命令を実施されたし。
攻撃命令
目標;魚釣島領海を侵犯中の中国艦隊
攻撃手段;ハープーン
攻撃方法;斉射」
攻撃?梅沢の背筋に冷たいものが走った。動悸が激しくなるのが自分でも分かる。
システム上、電文が届いた時点で全文が一挙に表示されているはずだ。先ほどの根本の落ち着き払った言葉は、俺に「空気を創る」準備をさせてくれた。ということだったのか。
落ち着け。俺は艦長だ。
根本の配慮に気づいた梅沢は、動悸が鎮まるのを感じた。
やれる。だが、攻撃というのは本当か。。。
今度は、戸惑いが支配する。
根本の目が、梅沢を射るように見つめる。そこに先ほどまでの見守るという類の優しさは、ない。「迷うな」「撃て」と言っているような有無を言わさぬ眼差しだ。
いや、焦るな。命令は絶対だ。すぐに実行しなければならない。が、艦長としての確認の余地はあってもいいはずだ。攻撃などそんな簡単に命じられるものなのか?
違和感を感じた梅沢は、それを許さないように見つめる根本から目を逸らした。そうしなければ、何も考えられないくらい、強い意志が根本の目に宿っているように見えた。
根本の視線を感じながらも、CICのレーダー画面を確認する。目的地である魚釣島の北にTGTとマークされた中国艦隊。島周辺に3隻居た筈の巡視船は2隻に減っている。
そう巡視船が撃沈されているんだ。それだけでも攻撃の理由になる。。。か。。。
梅沢の胸に何もできなかった無念が込み上げ、怒りに変わっていくのを感じた。が、もう一度、自分に言い聞かせる。
冷静になれ。と
ベテランの根本でさえ、攻撃しろ。という目で見ている。彼がリコメンドしてくる前に確認の指示を出さねば。しかし根拠は。。。
リコメンドとは、経験のある部下が、階級が上の者に対して「意見具申」することである。階級社会の自衛隊であっても、経験のある下士官の方が経験の浅い指揮官よりも熟知している事柄は多い。よって、その経験を作戦などに活かし、そして同時に指揮官の経験値も高めるという効果が期待できる。しかしその性質上、リコメンドがしやすい人間関係や置かれた状況など、様々な条件が整った上で発せられることでもある。これは逆にリコメンドを無視すれば、人間関係に陰りが差し、それ以降リコメンドしやすい条件が崩れる可能性すらある。よってリコメンドを無下(むげ)には出来ない。とも言える。
そして何よりも、根拠の無い命令を出すことは、艦長としての能力を問われる。しかもこの非常時にである。
せっかく作った「空気」を壊してしまう。。。
違和感だけで命令を出せない。。。違和感の原因があるはず。。。そう。これだ。本艦がいちばん近いとはいえ、対艦攻撃が得意な築城基地のF-2が向かっている様子もない。P-3Cさえ飛んでいない。新鋭の「あきづき」型護衛艦は、はるか後方、対艦ミサイルなど届くはずもない。やはりおかしい。。。
身体を起こした梅沢が背筋を伸ばす。
「司令部に音声通信で確認。本艦が最も目標に近いとはいえ、この命令は統制を欠いている。」
「司令部と打合せを行う。通信。無線通話は回復したか?」
梅沢が声を張り上げ、リコメンドの余地がないように矢継ぎ早に指示を出す。
「駄目です。交信不能っ。いまだに妨害を受けてます。」
司令部に呼びかける若者の必死な声が止むと、悲痛な報告が室内に響く。
くそっ、まだ駄目か。。。俺は攻撃するしかないのか?
部下に落胆を気付かれぬように俯いた顔が、歯を食いしばっているのが、膨らんだ頬の筋肉で分かる。
「艦長。命令は来ているんです。」
根本が言葉を被せてくる。先程と同じような落ち着いた口調ではあったが、強い意志を持った眼差しは潤んでいるようにさえ見えた。
いや、俺が決める。自分で納得出来ていない、いや、確認が必要だと気付いたのにそれをしないのは、単なる怠慢だ。
「確認させて下さい。これがきっかけで戦争になるかもしれないんだ。」
梅沢は自分がリコメンドを受け付けない雰囲気を示してしまったことに気付いたが、事が事だけに構ってはいられない自分が勝った。ただこれ以上、大先輩であり、自分を育ててくれた根本のリコメンドを拒否する訳にもいかない。という自分もいる。確かに命令は出ているのだ。これが最後のチャンスだ。他に手段はないのか?
「そうだ、衛星電話と電子メールはどうだ?」
振り返った梅沢に弾かれたように若い隊員がCICの外に走り出した。
俺も部下達もまだまだ頭が堅いな。。。
作品名:尖閣~防人の末裔たち 作家名:篠塚飛樹