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尖閣~防人の末裔たち

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55.友人


リゾート地のホテルだけあって、ユニットバスにしては広々としたバスタブにたっぷりと張った湯で、ゆったりと体を揉みほぐした悦子は、部屋に備え付けのバスローブをまとい、バスタオルで長い髪を丁寧に拭きながらソファーにゆっくりと座った。
閉ざされたカーテンの隙間から既に高く昇っている太陽に昼が近いことを知らされハッとするが、昨夜のうちに「Don't disturb 清掃不要」の札を出したことを思い出して安堵の深い息を吐く。朝食の時間もとっくに過ぎていた。
あの人が聞いたら怒られるかもね。。。
「朝食は体の資本だ。」と言って朝食をしっかりとるのが古川の主義だった。
 その言葉は今でも健在なようで、ここに泊まるはずだった古川は、しっかりと朝食バイキングのチケットも購入済みで、悦子は昨夜フロントで渡されていたのにすっかり無駄にしてしまった。。。
 そういえば新婚早々トーストと目玉焼きだけの朝食を並べたテーブルを挟んで「これじゃあ「おやつ」だっ!」とあの人に怒鳴られて泣きだしたっけ。。。白くて軽いお皿にトーストのささやかな朝食、夫との弾む会話。。。悦子の思い描いていた新婚生活の1コマはもろくも崩れた若き日の朝。。。
 今となっては遠い昔のほろ苦い思い出だったが、それは時に懐かしく、そしてなぜか心を和ませてくれる。決して帰ってこない日々だと分かっているのに。。。
 悦子が浮かべた微笑みはどこかもの悲しげだった。

古川が泊まるはずだったこの部屋に入ったのは昨夜遅くだった。事前に古川から話を受けていたフロントの担当者は不審がることもなく部屋の鍵を預けてくれた。きっと尖閣諸島の取材の間はいつもこのホテルを利用していたのだろう。
ビジネスホテルとの違いを強調するかのような広く開放的な部屋に入った悦子は、ホッとしたのか荷物を落とすように床に置いた。意図せず乱暴な動作になってしまった悦子を慰めるように毛足の深い絨毯のが優しく荷物を受け止める。
悦子は、東京から石垣への長旅と、極限状況に置かれた汗と緊張で一気にくたびれたように見えるワンピースを脱いでハンガーに掛けると、立っているのも億劫になり疲れはてた体をダブルベッドに投げ出した。
 何て1日だったんだろう。。。
 走馬灯のように今日の出来事が頭を巡る。田原の不敵な笑み、権田の必死の形相、手錠の冷たい感触、そして正義感に溢れた松土の死。。。助けられたことよりも、こんな囚われの身になっても、、、嬉しかった古川との再会。。。
 どれくらいこんな格好で横たわっていたのだろう。。。下着だけを身に付けた身体は1人でいても落ち着かないことにふと気付いた悦子は、動くことを拒否する身体を少しずつずらしながら薄くて軽い羽毛布団の下に入ったところで、眠りに落ちたのだった。
 私を人質にしてあの人を脅していた河田水産の人達は尖閣へ向かった。。。そして、あの人は、尖閣へ行くと言っていた。彼らの行動を止めるために。。。権田さんや、護衛艦の艦長と一緒にあの海へ。。。でも河田水産の人達は、銃を持っていた。。。
 田原の冷徹な笑みと、鋭く弾けるような銃声、血と火薬の臭い、松土の口から溢れだした血。。。悦子の頭の中に次々と巡る昨日の恐怖。。。
 あの人は、大丈夫なのだろうか。。。無事でいて欲しい。話したいことが沢山あるのに、せっかく再会出来たのに、まだ何も話していない。。。せめてどうしているのか知りたい。。。無事なのだろうか?
 悦子の動悸が激しくなり、心の中に膨らんだ不安を容赦なく揺さぶり、無念を煽る。嗚咽が漏れ、口を押さえる手が流れ落ちた涙に濡れた。
 
 どれぐらいそうしていただろうか、すっかり生乾きになってしまった長い髪を掻きあげた悦子の細い指が髪にまとわりつき「痛っ」と声を上げる。
 もうっ!
 内心毒づいた悦子の反射とは裏腹に、胸の奥からさっきの痛みを懐かむ何かが込み上げてきた。。。
そう、、、若かったあの頃。。。
古川は夜の取材から帰ってきた時に私がシャワーを浴びていると必ずと言っていいほどバスルームに侵入してきた。そして少しずつ私の心の奥に火を点けていく、、、火が燃え上がってくると2人は狂ったようにお互いを貪りながらベッドへと場所を移して激しく愛し合った。。。そして、愛をぶつけ合い溶け合った後、ぐったりと余韻に浸っている私を慈しむように丁寧に愛撫してくれるひとときが私は好きだった。でも、古川はその私の至高の一時を時々台無しにすることがあった。。。生乾きになり激しく乱れた私の髪を撫でるときによく指を引っ掻けたのだった。
だって、今みたいに髪を引っ掻けるんだもん。。。
苦笑した悦子はさらに思いを馳せる。
そうそう、あの人は「ごめん、ごめん」と言った後、必ず
テレビのニュースをつけたっけ、仕事柄ニュースを気にするのは仕方ないと思ったが、二重にしらけてしまったものだった。
今もあの人はそんな風に愛し合っているのだろうか。。。私の知らない他の誰かと。。。
苦笑しながら、寂しさに居たたまれなくなった悦子は、
「裸の女の隣にほったらかしてニュース見る男なんて、」
呟いた悦子は我に返った。
「そうよ、ニュースだわっ」
慌てて立ち上がりテレビのリモコンを手に取ると、画面を狙い打つようにリモコンを向けた。
そう、なんで気づかなかったのよ。。。尖閣で何かあればニュースになるじゃない。
元ジャーナリストの妻としては、遅すぎる「気づき」に時の隔たりを実感した悦子の胸を再び寂しさがまとわりついた。
まだニュースの時間ではないけど。。。と、CMに心の中で呟く。海を題材にした懐かしい90年代のヒット曲が流れ、沖縄の海をバックにした少女の初恋を絡めたお馴染みの飲料水のCMに、また思い出の景色を重ね始めた時、CMが終わり、生真面目な表情をしたスーツ姿の男が現れた。画面の下の方の「武装集団が魚釣島を占拠」というタイトルが目に入る。
やっぱりそうだったんだ。。。
悦子は目を大きく見開き、開いたままになった口には手のひらを当てた。呼吸が自然と荒くなる。
アナウンサーの男が、手元の紙を慌ただしくめくる声を発しようとした時、どこからともなく声が掛かり、男が振り反って頷いた。表情を作り直してカメラを見つめた彼は、一礼すると、
「ニュースの途中ですが、緊急の記者会見が行われることとなった、総理官邸と中継が繋がっておりますのでご覧ください。」
 音声の途切れたテレビが断続するフラッシュに何度も白みがかる画面に切り替わり、中央に映る何本ものマイクが林立した演台には、度重なる問題で、すっかりお馴染みになった内閣官房長官が神妙な面持ちで隣にある大きなパネルを長い指し棒で示し、何かを説明しているようだった。
 内閣官房長官って、いつも矢面に立たされて大変ね。政治が苦手な私でも顔と名前が一致するくらいだもん。昔は内閣官房長官って何?って感じなぐらい表に出なかったと思うけど。。。
 悦子が同情の眼差しで画面の男を見ていると、急に音声が蘇り、シャッター音と慌ただしいざわめきがBGMのように流れる。
作品名:尖閣~防人の末裔たち 作家名:篠塚飛樹