尖閣~防人の末裔たち
淳子。。。なぜ泣いているんだい?そんな悲しそうな顔をすることはないよ。久々に会えたんだから。。。お前は、歳をとらないな。。。震災の時、そばにいてやれなくてゴメンな。。。あれから何年たったんだろう。。。あれ?なんだか数えられないや。。。苦しいけど体がフワフワしてきた。。。これからはずっと一緒にいられるぞ。。。
「淳子。。。」
そう呟いたように悦子には聞こえた。松土は虚ろな目で悦子を見つめていたが、口に血の泡を溢れさせ始めるとその目に生気は無くなっていった。
「松土さん。。。きっと奥さんが迎えに来たのね。。。」
悦子は静かに声を掛けると、これまで堪えてきたこと全てが解放されたように涙が溢れてきた。
私は悟さんが生きているだけまだ幸せだ。だって気持ちはどうであれ、言葉を交わすことが出来る。。。古川に視線を移した悦子は息を飲んだ。先ほどまでとは打って変わって顔色が白くなった古川が、一瞬だけ目つきを鋭くしたのを悦子は見逃さなかった。それは、古川が怒りを露にしたときの表情だということを、悦子は身をもって知っていた。普段おおらかな古川だからこそ、あまり目にする機会はないが、間違いなく彼は怒っている。離婚届を置いて家を出ていった時も同じ表情だった。
悟さんは酔ってなんかいない。怒っている。そしてあの人は本当に怒ったとき必ず怒りを行動に移す。
いけない。相手は銃を持っているのよ。。。
悦子は心の中で叫んだ。どんなに古川が怒ろうと銃にかなう筈がない。陸上自衛隊員だった松土でさえ為す術もなかったんだよ。。。悟さん落ち着いて。。。
悦子は祈るしかなかった。
「私に銃を向けるからいけないんです。便利なもんですねぇ、銃は。。。初めて人を殺したがまるで自分で殺したという実感がない。映画のワンシーンのようですよ。次は奥さんの番ですよ。どうしますか古川さん?」
挑発するためか、いや、初めて人を撃ち殺した現実に気持ちを落ち着けるためか、田原は、ワイシャツの胸ポケットから煙草を取り出すと、ゆっくりと口にくわえて、火を点けた。軽く深呼吸をするように時間を掛けて吸い、ゆっくりと煙りを吐き出した。
古川は、いつのまにか握りつぶしていた紙コップをその場に捨てると、ウォッカの瓶を口にくわえて一気にあおった。まるでラッパ飲みをしているように見える。
「いいかげんに自棄酒(やけざけ)は、やめたらいかがですか。奥さん、あ、失礼、元奥さんが気の毒ですよ。」
奥さん。という言葉に否定の言葉を投げようとする悦子を、古川が一瞬目で制したように感じ、代わりに悦子は田原を睨み付けた。その目をからかうような田原の目が見返す。睨み付けられたら睨み返すまではなくとも、相手に気を取られるのは状況を問わず誰しも同じことだった。悦子と田原の間に妙な均衡が生まれる。
その均衡を崩そうとしたのか、それともさらに煽って悦子の反応を楽しもうとしたのか、再び銃を悦子の方に向けながら田原は煙草を口に運んでゆっくりと旨そうに吸い込み始めた。それに併せて煙草の先端の火種が強く光り、勝ち誇った表情を際だたせる。その横顔を黙ってみていた古川が突然口を尖らせたことに悦子の反応を弄でいた田原は気づいていない。
もういいぞ、こっちを向け。。。
古川は心の中で冷たく囁くと、指を軽くパチンと鳴らした。
煙草を吸い込みながら古川の方に田原が顔を向け始めたタイミングで古川は尖らせた口先から水鉄砲のように口に含んでいたウォッカを吹いた。田原が異変に反応する間もなく、液体の線が煙草の火種を過ぎると炎に変化して田原の顔にまとわりついた。目の前が炎に包まれた以外は何が起きているのかも分からない田原は、煙草を手放すと、その手で必死に顔を叩く。さすがにアルコール度数96%を誇るウォッカ「スピリタス」だけのことはある。注意事項に「火気厳禁」と書いてある酒などそうそうお目に掛かれないだろう。その無知が古川を「酔っぱらい」と決めつけ、招い結果だった。
古川は、その瞬間を見逃さずに田原に襲いかかった。一瞬にして田原の眼前に踏み込んだ古川の左手が田原が握っていた拳銃-ベレッタM92FSのセーフティーレバーをロックすると、右手を加えて銃を包み込んで一気に捻る。田原のうめき声と共に銃をもぎ取った古川は、その堅くて質量感のあるグリップを田原の首筋に叩き込んだ。田原は声も上げられずにその場に膝を折って崩れ落ちた。
古川は、田原の頸動脈に手を当てて、気を失っているだけなのを確かめると、田原から奪った銃をベルトに差し込み、さらに松土の亡骸に手を合わせると、硬く冷たくなった手に握られた銃を1本ずつ丁寧に指をはがしながら静かに取り上げた。そして、ポケットをまさぐり、手錠の鍵を見つけだすと、悦子、権田、倉田の順に手錠を外して、彼らを自由にした。彼らの感謝の言葉を上の空で聞きながら、古川は気を失って重い田原を窓際に引きずる。慌てて権田が手を差しのべる。壁際に田原を寄りかからせて安定させると、転落防止のためか窓枠の低い位置に1本横に渡されたパイプに3つ連ねて長くした手錠を掛けて、無理な姿勢にならないように田原の手首に手錠を掛けた。
「すまない。えっちゃんを巻き添えにしてしまって、、、」
作業が一段落したタイミングを見計らって権田が力無く頭を下げる。
「今は時間がない。話は後で聞きましょう。ただひとつだけ教えてください。あなたは私の味方なんですよね?」
射るような眼差しで古川は権田を見つめた。そこには、もう後輩という遠慮はない。
「俺は彼らに弱味を握られていたんだ。だから逆にあいつらの弱味を握ろうとしていたが、あと一歩のところで間に合わなかった。申し訳なかった。」
権田は、真剣な目を古川に返す。
「弱味?」
古川が怪訝そうに聞き返す。権田はそんな男には見えなかった。
「情けない話だがな、お前が社を辞めた後、フリーランスにある特ダネを持ち掛けられて、騙されちまった。それ以来、防衛機密の漏洩だ。といって脅されてた。。。で、俺は、俺で奴らの弱味を握ろうとしていたんだ。
でも、お前の尖閣取材は、違う。奴らは純粋に記者を探していた。彼らは本気なんだ。お前ならもう気付いているだろうが、この活動で彼らは日本の防衛問題を一気に解決しようとしている。
それだけは信じてくれ。」
権田の目が心なしか潤んでいるように見える。古川は、小さく頷く。
「分かりました。。。それは信じましょう。」
古川が呟いた。確かに、尖閣取材とは別の次元の問題。。。そう、権田だけの問題だ。しかし、権田が掴もうとしていた河田たちの「弱味」とは、いったいなんなんだろう。。。
古川が、その疑問口にしようすると、権田が悦子に向き直って、頭を下げた。
「えっちゃん、すまなかった。。。こんなことに巻き込んでしまって。。。」
悦子は無言だった。
確かに怖い思いをした。しかし、形はどうあれ、古川と再び会うことができた。純粋に古川を案じていることも伝わったに違いない。悦子の心に複雑な想いが巡る。。。
安易に返事が出来ずに俯いている悦子に、権田の言葉が続く、
「これだけじゃない。俺は君達にずっと謝らなければいけないことがある。。。」
作品名:尖閣~防人の末裔たち 作家名:篠塚飛樹