尖閣~防人の末裔たち
清水に会釈をして部屋の中に歩みを進めると、
長身でいて不安定さを感じさせない筋肉質を思わせる体つきの男が会釈をした。塩に焼けた顔に年相応の皺を刻んだその男が古川に優しそうな笑顔を向ける。
「初めまして、倉田です。お暑い中、遠いところ、ようこそおいで下さいました。」
と明朗な声にも優しそうな人柄が滲み出ているようだった。
仕事の性格上、今までに何人もの艦長に取材をしてきた古川だったが、このように体全体から優しさを滲み出させているようなタイプの男は初めてだった。彼が率いる護衛艦「いそゆき」が、数多い同型艦の中でも、演習成績、競技会成績、無事故、稼働率など、様々な点で抜きん出ているという噂も、その艦長を目の前にした古川には納得がいった。
「古川です。今日はお忙しいところお時間を頂いてすみません。よろしくお願い致します。」
古川は深く頭を下げた。
「それでは、私はここで失礼致します。」
一礼して立ち去る清水に、古川は、
「ありがとうございました。勉強になりました。」
と頭を下げて見送った。
「いえいえ、私もお話しできて良かったです。では、終わりましたらまたお迎えにあがります。」
清水は再び頭を下げると、静かに部屋を出ていった。
「どうぞ、お掛け下さい。」
清水の退室を見送った倉田が、テーブルに顔を戻した古川に席を勧めた。
会議室とは言っても、広さは8畳程度だろうか、部屋の中心に置かれた建物同様に年季の大きなテーブルを挟んで椅子が両側に3つずつ並んでいた。外の景色の映り込みを防ぐためか窓側の角に設置された液晶テレビが現代にいることを思い出させてくれる。その液晶テレビを載せた背の高い灰色で塗られた鉄製のラックの中には薄いDVDプレーヤーが、大きな空間の中にポツリと置かれ、その薄さを際だたせていた。それは、大その空間を一杯に占有するほどのビデオ機器でこなしていた仕事を今はこの薄さでこなせる。と技術の進歩を計らずとも語りかけていた。これがあれば大丈夫だ。古川の目に安堵の色が浮かんだ。
適度に効いた空調が、古川の汗を静かに乾かし、体を優しく冷やしてくれて心地が良かった。そして、窓の外の緑を映して差し込む日差しが柔らかく、心を落ち着かせてくれた。質素な部屋だが打ち合わせには向いているんだろうな。と古川は、部屋に視線を巡らすと、
「失礼します。」
と3つ並んだ席の真ん中に座り、左側の席にはリュックを置いた。一応、取材なので、スラックスにワイシャツ姿だが、のんびりローカル線の旅を楽しむように数泊分の荷物を持って歩き回った来た今回の古川にとってビジネスバックは役不足だった。
「こんななりですみません。」
リュックから手帳とモバイルギアを取り出しながら古川は苦笑してみせた。
「いえいえ、そんなことないですよ。お気になさらないで下さい。」
倉田は気さくそうに軽く笑い、顔の前で手を横に振った。
護衛艦「いそゆき」についての簡単な説明と、艦としての行動指針と艦長として心掛けていること、に始まり普段の訓練から、尖閣諸島での活動など、月並みな質問を続けた。会話の中で、倉田2佐が艦長職ではなくなったことを知った古川に、「この艦も含めて1980年代に建造された「はつゆき」級護衛艦は、老朽化が進んでいるのもさることながら、時代はDD(汎用護衛艦)でもフェイズドアレイレーダーなどを設けたセミイージスが主流ですから、御存じの通りと思いますが、同型艦も次々と廃艦になっています。この「いそゆき」も来春には、廃艦が決まってます。最後までこの艦の艦長ができれば、と考えていたんですけどね。私もあと数年で退官ですから、」
と倉田は寂しげに胸の内を語った。
当たり障りのない質問が一通り済んだ頃、ドアをノックして婦人自衛官がステンレスの盆に載せたコーヒーを運んできた。20代前半に見えるその横顔に派手さはないが、真っ直ぐに通った高い鼻と薄い唇が、凛とした表情を作り、機敏さの中に淑やかさを感じさせる立ち居振る舞いは一瞬目を留めてしまうような美しさがあった。民間ではまずお目に掛かれない美人だ。と古川はしみじみ思った。
深々と礼をして部屋を出る婦人自衛官に会釈を返した古川はドアが閉まるまで見送った。
「すみませんね。飲み物をお出しするのが遅くなってしまって。こちらに来たばかりなので、コーヒーを出して貰う頼み方もタイミングもよく分からなくて、、、艦ではみな任せてましたから。。。」
視線を戻した古川に倉田が下げた頭を掻いて、上目遣いに詫びを述べた。
「いえいえ、いいんですよ。頂きます。」
と古川はコーヒーを口に付けた。深く上品な苦みを予感させる濃厚な匂いが鼻をくすぐり、脳に安らぎを与える。アイスコーヒーをひと口含むと、苦みに脳が直接刺激されるように、古川の覚悟を覚醒させた。まさか話の途中でコーヒーを客から下げるようなことはしないだろう。もう誰も来ない。話を切り出すにはいいタイミングだ。古川は、グラスを置く。グラスに結露した水が指先にまとわりついている。その指先をさりげなくズボンで拭うと、手帳のページを繰り、再び話を聞く準備を整えた。
古川に合わせてコーヒーをひと口飲んだ倉田がグラスをテーブルに置いたのを見届けた古川が口を開いた。
「艦を降りたということですが、前々から決まっていたことなんでしょうか?来年には廃艦というお話でしたが、このタイミングでの異動は珍しいですよね。」
倉田は「降ろされた」と言っていたが、古川はあえて「降りた」という表現を使った。この時点での異例とも言える艦長変更、その真相が知りたかった。
「いえ、前もって話があったわけではありません。ほんの2,3日前です。」
倉田は膝の上からテーブルの上に手を移動すると所在なげに両手を組んだ。笑みの消えた目はその手に視線を注いでいる。
「では、尖閣から戻ってから。ということですか?」
さらに古川が問いを重ねると、倉田は組んだ両手のうち、親指だけを解いて、親指同士を擦りあわせるような仕草をしながら顔を上げた。強く結んでいた口がゆっくりと開いた。
「そうです。正直に言いますと、自分から艦長職の辞退を申し出たんです。」
優しく微笑んでいるようだった目は、光を失って曇っているように見えた。
「艦長職を、自ら?先ほど、「いそゆき」が廃艦になるまで艦長をしたかった。と仰ってましたよね?」
古川は、驚きのあまり言葉を選ぶ余裕もなくストレートに倉田に聞き返してしまった。
「シースパロー。。。」
倉田が組んでいた手を解き、自分の手のひらをじっと見つめたまま呟いた。
「シースパロー。私はあの海で発射準備を命じた。。。中国の戦闘機に向けてシースパローを発射するところだったんです。」
倉田の静かな声が、狭い会議室に響いた。シースパローは、「いそゆき」が搭載していた艦対空ミサイルだった。目を見開いた古川が固唾を飲み頷くのを見た倉田は、先を続けた。
「うちのP-3C1機が、魚釣島上空で中国の空母から飛び立った戦闘機2機に追い回されていたんです。挙げ句の果てにロックオンまでされました。。。付近の海域の空母から飛び立ってきた戦闘機に、那覇からスクランブル発進した戦闘機は間に合いませんでした。
作品名:尖閣~防人の末裔たち 作家名:篠塚飛樹