尖閣~防人の末裔たち
アパートの駐車場で車を降りて階段を上っただけでじっとりとした汗が服に貼り付いて更に汗を呼ぶ。夏でも地味なパンツスーツを着ている悦子は尚更暑そうに見える。昔はこの時期は夏らしく開放的で涼しげな薄手のワンピースを好んで着ていたからなおさらだ。離婚してからは職場へはスカートを穿いて行かないことにしている。そして地味な格好を頑なに守ってきた。流行を追いかけない薄い化粧をして、恋愛には興味がない。と言わんばかりの雰囲気を醸し出してるつもりだった。誘惑に弱いタイプだったから、離婚の原因が職場での不倫だったから懲りた。といえばそれまでだが、離婚して4年という歳月は、周囲の環境と人の流れを少しずつ変化させ、大河のように不倫に対する周囲の批判と興味の噂を薄めて同化しゆっくりと流れていった。そしてもともと肌に自信があり、肥えることなく華奢に伸びた手足をもつ悦子にとっては、地味に振舞っていること自体が33歳という年齢と相まって落ち着いて清楚で綺麗な女性という印象を男達に与えていることに当の本人は全く気付いていなかった。悦子の思いとは裏腹に、結婚前提で真面目に迫ってくる男性は後をたたない。
まだ恋愛は出来ない。寂しい時もあるけど。。。まだダメだ。悟さんに言わなければいけないことが私には、ある。。。その度に悦子は自分を戒めた。
肩に掛った髪の内側からハンドタオルでうなじを拭うと深い溜息をついて悦子は玄関を開けた。蒸れた暑い空気が塊になったように悦子にぶつかり、そして包んでいく。いつものように郵便受けを確かめる。もしかしたら今度こそ悟さんに出した暑中見舞いの返事が来ているかも。。。しかしダイレクトメールすら入っていない現実に2度目の溜息をついた。
悦子は靴を脱ぐとそそくさとベランダの窓と、階段側の出窓を全開にする。外は暑かったが、部屋を抜ける風が新鮮で気分が晴れる。ふと、視界に異変を感じた悦子は、ベッドサイドの電話機に目を向けた。やっぱりそうだ。留守録を示す赤いLEDが点滅していた。珍しいこともあるものだ。悦子は、
「何だろう」
と呟きながら再生ボタンを押した。ここ数年で悦子には仕事の要件以外では電話が掛ってくることは殆んど無く、しかも携帯電話に掛ってくることが多かった。悦子は、そろそろ固定電話を解約しようと考えていたところだった。光にしませんか?など、ネット関係の勧誘の電話が多くなってきたことも解約を考える理由の一つだった。
再生が始まると、2秒程度の無音状態を吹き込んだ後、電話は切れた。
「14時42分 1件です。」「再生を終了しました。」
と、立て続けにとぼけた声音の電子音が告げた。
何だろう。ナンバーディスプレーにしていなかったことを今更悔やんでも仕方がない。発信者通知や、着信拒否などなど携帯電話には当たり前についている機能が何故固定電話には最初からついていないのだろう。。。まあいいけどね、来月には解約しよう。
悦子は、電話機に見切りをつけるように一瞥すると、シンクへ行って弁当箱を洗い始まった。蓋を開けた悦子は、いつものように顔をしかめる。食べ終わった後に職場でゆすいではくるのだが、腐ったような臭いはどうしても残ってしまう。夏になると特に酷い。やはり洗剤で洗ってくるべきだろうか?いや、狭い給湯室で洗っていれば若い女子職員に気を遣わせてしまうだろうし、邪魔だろう。
今朝時間がなくて洗えず、水に浸しておいた朝食の皿も一緒に洗剤をたっぷり含ませたスポンジで泡だらけにして、一気にゆすぐ。シャワーにしている水道の音と水の冷たさが心地よい。電話が鳴っているような気がするが、気のせいだと思い、ゆすぎ続ける。変な留守電が入っていたから気になるだけだ、私にまともな電話が掛ってくるはずがない。どうせ勧誘の電話だ。どうやって私の電話番号を知ったのだろう。気味が悪い。。。弁当箱を念入りにゆすいでいる時に、それでも気になって水道を止めた。やはり電話が鳴っていた。
悦子は壁に掛けたタオルで素早く手を拭くと、小走りにベッドに向かい受話器を取った。
「はい、もしもし。。。」
悦子は相手の分からない電話に出るときは、自分からは名乗らない。そしてなるべく不機嫌そうに出る。相手が分からない時は名前を教えず、好印象を与えない。女の独り暮らしの防衛策だ。
-あっ、えっちゃん?-
低くても明るい感じの男の声が耳に響く。見知らぬ男に久々に馴れ馴れしい呼び方をされて、思わず受話器を置きそうになる気持ちを抑えた悦子は、無言で馴れ馴れしさに抗議した。
男はそれを察したらしくかしこまった声に変えて言いなおし始めた。
-あ、すみません。田中悦子さんでいらっしゃいますでしょうか?-
どこか懐かしい声なような気がした。誰だろうか?
「はい、そうですが。」
不信が口調に表れているのを悦子は自分でも感じた。
-私、権田と申します。-
悦子は声が詰まり、受話器を握りなおす。
権田さん。。。元夫、古川 悟の上司だった男だ。新婚の頃は夫婦絡みで付き合いもあった。奥さんの名前は、何だったっけ?
-覚えてらっしゃいますか?産業日報時代に古川 悟君と一緒に働いていた権田です。-
男は畳みこむように続けた。まるで知らないと言わせないような強引さだ。
忘れる訳がない!悦子は叫びそうになった。あの写真。。。私が不倫相手と歩いている場面を暴いた嫌味なくらいに上手に撮られたあの写真。。。離婚してから、あなたをどれだけ恨んだか。。。どうしていきなり悟さんに暴露したのか。。。奥さんを通して警告してくれても良かったのに、悟さんと気心がしれたあなたなら、悟さんの反応は予想できた筈じゃないの。。。自業自得。と呪文のように毎日唱えて自分に言って聞かせ、それが逆恨みである事を自分自身に納得させるためにどれだけの月日を要したか。。。あの頃の気持ちが蘇ってくる。
あれは自業自得。最近唱えなくなった言葉を心の中で反復させる。
「あ~、権田さん。うわ~、お久しぶりです。お元気ですか?」
悦子は、ワザとらしいくらいに明るい声を出して見せた。
-良かった。覚えていてくれて、お元気でしたか?-
何を白々しい、離婚に追い込まれた私が、あなたを忘れる訳がないじゃない。。。またあの頃の恨みが蘇りそうになる。悦子は思っていたより成長していない自分自身に内心呆れているもう一人の自分がまた呪文を唱える。自業自得よ。。。
再び冷静さを取り戻してくると、やっと常識的な疑問が浮かんできた。元部下のしかも元妻にいったい何の用だろうか?私はあなたには全く用事がない。
「はい、何とかやっております。どうしたんですか電話なんて。」
-実は、古川が、取材中に大怪我をしたんです。石垣島で、尖閣諸島問題の取材をしていたんです。-
予想もしていなかった要件、そして、あまりの唐突さに悦子は言葉を失い、受話器を落としそうになる。
「えっ、本当ですか?容態は。。。いえ、でも、私にはもう関係のない人です。」
悦子はそう答えることしか出来なかった。張り裂けそうな心臓の音が受話器を通して権田に伝わるのではないかというくらいに体中の血管が脈打つのが分かるようだった。悟さんに何が。。。
作品名:尖閣~防人の末裔たち 作家名:篠塚飛樹