尖閣~防人の末裔たち
3日前に母が炊き出しに持っていこうと玄関に置いておいたポットを遊びに出かけようとした権田少年が倒してしまい。コンクリート製の土間にポットを落としてしまったのだった。ポットは風船とガラスが同時に割れたような音を立てて土間に落ちた。慌てて持ち上げた権田少年がポットを振ると「シャンシャン」とマラカスのような音を立てた。ポットとはいっても、現在のように電気で湯を沸かして保温するような電気ポットではなく、形こそ似たようなものだが、電気ではなく、ヤカンなどで沸かした湯を入れて保温するだけの水筒の親方のようなものだった。しかし、沸かした湯を長時間冷めずにさせずに保温できることから魔法瓶とも呼ばれていた。また、瓶というだけあって、当時の主流は、熱を遮断する真空層にガラスを使っていたため衝撃で割れやすかった。
玄関での異変に気付いて駆け寄ってきた母は振られたポットが立てる音を聞くと
「一本でも大事な時なのに、何するのよっ!」
と珍しく権田少年を怒鳴りつけたのだった。保温に便利なポットを各家庭が持ち寄って、氷水を入れて乗客の家族や医療関係者、警察、消防、自衛隊関係者に振る舞おうとしていたのだった。権田の父の借家をはじめ、普通の家庭には1本あれば充分なポットは、各家庭から集めても十分な数にはならなかったのだった。権田が割ってしまったポットはその貴重な1本だった。。。
という話を、数年後の夏、慰霊登山の様子をニュース番組で見ていたときに母が権田に聞かせたのだった。
台所に辿り着いた権田少年は、男が緩めておいてくれた蓋を慎重に開けて、水筒の中を覗き込んだ。中は暗く、鏡のようなガラス独特の光沢はなかった。
「すげ~。ステンレスだ」
男の水筒は、ステンレスの魔法瓶だった。これなら割れる心配はない。
「はい。おまちどうさまでした。」
権田少年は、食堂のおばさんのような言い方しか思いつかない自分に吹き出しそうになる。心に余裕が出来たのか、今度は男の顔を真っ直ぐに見ることが出来た。汗と砂埃で汚れているのが、小学生の権田にも分かった。そして、何日も髭を剃っていないのだろう、キャンプに行って風呂に入れなかった時の朝の父より髭が伸びていた。こういうのを無精髭っていうのかもしれない。何故か権田少年は得したような気分になった。
「ありがとう」
と男は顔の汚れ具合には違和感のある笑顔で水筒を受け取ると、早速喉を鳴らして飲んだ。この暑さの中で、何時間も水を飲めずにいたのだろう。
「は~。生き返る。ありがとう。しかも氷まで入れてくれたんだね。ホントにありがとう。あ、そうだ。これ。。。どうぞ」
男は、活き活きとした表情になり、満面の笑みでリュックから取り出した手付かずのガム1箱を権田少年に差し出した。
「ありがとう」
それから数日の間、新聞記者は水を貰いに権田少年を訪ね、権田少年は、いろいろな話を聞くことが出来た。遊び相手が少ない田少年は、新聞記者と話をするのが楽しみになっていた。
大人になると、悪い人だけが悪い訳じゃなくて、偉い人だって隠れて悪いことをする時もある。みんなのためにと思って、とんでもないことを隠している人もいる。困って助けを求めているけど、誰も気付いてくれないという人だっている。大人だって世の中知らないことばかりなんだ。。。
この事故だってそうだよ。本当は何が原因なのか?ということを隠されたり嘘をつかれてしまうと、また同じような事故が起きる。大事な家族を失った人がどれだけ悲しみ、困っているのか、助けられることは何か。。。誰も知らなければ何も良くならないし、悲劇は繰り返される。
だから俺は、新聞記者になった。本当のことを調べ、本当の声を聞き、みんなに知らせる。それが良い社会に繋がるんじゃないかって思うんだ。
ペンは剣よりも強し。
熱くそれでいて優しい学校の先生のように諭すように語る男に権田少年の心の中に忘れかけていた「カッコイイ!」という言葉が蘇った。
僕は新聞記者になる。
夏休みもあと僅かになり、母と船橋の自宅へ帰る日の朝、権田少年は、520人もの命を飲み込んだ尾根に誓って上野村を離れた。
あの時の気持ちを忘れた訳じゃないんだ。。。権田は、ウィスキーの水割りを空にした。何杯目だろうか?まあそんなことはどうでもいい。俺は、あの人みたいに記者として、堂々と真実を伝えていくために頑張ってきた。。。あの事件さえ起きなければ。。。
権田は、ダイニングテーブルの隅に握り拳を押しつけた。5年前、あれはまだ、古川も社にいた頃だった。あるフリーランスの記者が、権田を訪ねてきた。新型潜水艦に関するネタを持って。。。それは、産業日報でも把握していない情報だった。上司に相談すると即OKが出た。ただし、長期取材になる。普段は、裏が取れればネタをくれたフリーの記者に謝礼を渡して、自社の記者で独自に取材を進めるのだが、当時一緒に組んで仕事をしていた古川は、社会部への異動の前段として、社会部の手伝いをさせられていて、とても長期取材には充てられない。上司と相談した末、そのフリーランスの記者と訓で取材をすることになった。
取材を始めて3ヶ月も過ぎると、だいぶ資料も集まった。フリーランスの記者は体調が悪いらしく、なかなか一緒に仕事をする事が出来ず、権田の負担が大きかったのが不満だったが、仕事自体は順調に思えた頃だった。
そんなある日の夕方、ある男が社に権田を訪ねてきた。体に貼り付いているような濃紺のスーツが、男の体格の良さを示している。
応接室へ入ると、権田は名刺交換をしてから椅子を勧めた。
名詞には、
海上自衛隊 海上幕僚監部 三等海佐 田原 智行
とあった。
田原と名乗る50近い歳に見える男は畏まって背筋を正して、開口一番に
「権田さん。あなたの集めた資料が、中国に流れてしまいました。」
と言った。なんのことだ?資料など誰にも渡していない。
「仰る意味が分かりませんが、何の取材でしょうか?それに私は中国人と接触した覚えはありませんが。。。」
権田はきっぱりと言い切った。不確定な話しだ。この程度で言葉が澱んでいるようでは記者は勤まらない。
「率直に申し上げます。あなた方が取材することに対して我々がとやかく言うことはありません。しかし、あなた方が得た情報については、我々も黙認できないものもあります。鈴木浩一。ご存じですね?」
穏やかな話しぶりの田原が、ある男の名前を呼び捨てで挙げた。鈴木浩一。。。権田は口の中で呟いた。ネタを持ち込み一緒に仕事をしていた彼が何を?権田の中で様々な思考がフル回転する。
「彼の本名は、胡王広。あちらの呼び方ではフー・ワンガンと言います。」
田原が権田の反応を確かめるように権田の目をじっと見ながらゆっくりと語った。
権田は背筋が凍る思いがした。目が田原の目に刺されたように動かない。
事態を飲み込めたらしい権田から目を一旦そらすと
作品名:尖閣~防人の末裔たち 作家名:篠塚飛樹