尖閣~防人の末裔たち
36.覚悟
翌朝、古川は目を覚ますと、カーテンを少し開いて外の天気を確認する。嫌味なぐらいの快晴だった。今日も暑くなりそうだ。こんな暑さの中沢山の荷物を抱えていくのは気が重いが、初日から傘を持ち歩く煩わしさを考えるとマシなのかもしれない。
古川は、机の上には、いつも持ち歩いているB5サイズのノートパソコンThinkPadがスクリーンセイバーを流していた。昨夜寝る前に外付けのポータブルハードディスクを接続し、寝ている間に必要なデータをコピーしていたのだった。様々な取材に連れて歩いたこのノートパソコンには、様々なデータが入っている。いわばジャーナリスト古川の財産とも言えるものだった。キーを押してスクリーンセイバーを解除し、パスワードを入力する。データのコピーは既に終わっていた。古川はポータブルハードディスクを取り外すとリュックにしまった。
「便利な時代になったもんだ。」
古川は呟く、しかし、この便利さの反面、データの拡散に歯止めが利かず、もしかしたら命を狙われるかもしれない状況に立たされてる皮肉を感じながらノートパソコンからDVDの書込ソフトを削除した。これくらいで誤魔化せればいいが。。。
古川の留守中、河田達は何らかの方法でこの部屋に侵入するだろう。海保のヘリを撃った真の理由は直接聞かなければ分からないが、河田達は、「中国が撃ってきた。さあ日本はどうする?」という問題提起をしたかったのではなかったか?だからこそ「生け贄(いけにえ)」という言葉を口にしたのではないか?いくら法整備が現実的でないとはいえ、何もそこまでしなくても。。。でも、それが長年国防の現場で苦渋を舐めてきた者の出した答えなのかもしれない。。。古川は背筋が凍る思いがした。
古川は、準備を整えると写真データをコピーしたDVD3枚をそれぞれ一枚ずつ封筒に入れ、リュックにしまったのを再三確認した。大丈夫だ。自分を励ますように頷くと、玄関を出た。
早朝の東京駅は、既に沢山の利用客で混み合っていた。忙しなく行き交うビジネスマンやOLは、見慣れた光景だったが、そこに混じったどことなくのんびりとした流れの家族連れが、まだ夏休みであることを主張してしていた。
古川は、よく手入れされたコーヒーショップのガラス越しに利用者の流れをぼんやりと眺めていた。まるで別世界でも見るかのように。。。この他愛もない朝の営みでさえ、平和というのは名ばかりの絶妙なバランスの上に成り立っていることを彼らは理解しているのだろうか?虎視眈々と領土拡大を狙う国。世界的に孤立し、核兵器開発で活路を見いだそうとする独裁国家。日本同様にアメリカの同盟国という立場にありながら日本の島に不当に軍事施設を作る国。北方領土という戦後から引きずる領土問題を抱えたままの超巨大国家。。。
軍事的衝突が起こらないとは決して言い切れない状況の中で何十年と存在し続けることが出来た日本は、ある意味世界の奇跡といえるのかもしれない。憲法9条という名のもと、戦争を放棄したと世界に公言していてもこのように危機は増大している。日本がどんな理想を掲げようと、自国の国益を追求する近隣諸国にとっては何の効力もなさない。刃物を突きつける強盗を目の前にして、「私は争いはしません。だから刃物は持っていますが絶対に使いません。だからあなたも刃物を降ろしなさい。でもお金も渡しませんよ。」と言ったら相手は素直に引き返すだろうか?相手が、国家として行動を起こすということは、その目的を達成するまで引き下がらないということだ。「はいそうですか、ごめんなさい。じゃお元気で」とはならないのである。国益が絡めばなおさらである。そして国民感情が強ければ強いほど、振り上げた拳は目的の場所に叩きつけなければ、国家として体をなさなくなることを最も恐れている。
「戦争を放棄する」という言葉だけが先行し、ありとあらゆる戦いを悪と断じてきたことが、平和を守るための戦い方さえ決めていない、いわば国家として無責任な状態を良しとしてきた。
あの家族連れは知っているのだろうか?
永世中立国を宣言し、戦争に巻き込まれることなく平和を貫き通してきたスイスは、国民皆兵であり、各家庭には銃と軍服が常備されていることを。。。
あのビジネスマンは知っているのだろうか?
永世中立国のスウェーデンは、有事には戦闘機の基地として使用することを前提に高速道路を作っていることを。。。
平和、戦争反対は、唱えるだけでは実現しないということを、いつになったらこの国の人々は理解するのだろう。平和が欲しいなら、、、戦いたくないのなら、相手国に我が国と戦うことのリスクの大きさを理解させなければらない。戦わずとも日本と領土問題で争うことを諦めさせることが真の平和に繋がるのだ。そのためには、日本の守りは万全だ、ということをアピールし続けなければならないのだ。
平和はタダでは手に入らないということを、そろそろ自覚しなければならない時期なのではないだろうか。。。
古川は、サンドイッチの最後のひと口を頬張ると、冷めてしまったコーヒーで胃に流し込んだ。
やはり佐世保へ向かおう。権田から取材のアポが取れたという連絡はまだないが、不明確な立場にある権田とも距離は置いた方がいいだろう。打ち合わせをしたい。と言われても既に東京を離れた後ならば、戻ってこいとまでは言わないはずだ。
飛行機は、いざというとき逃げ切れないし、新幹線も同様だ。佐世保のために取材へ移動することは、いずれ河田にもバレるだろう。もし、妨害を仕掛けるつもりなら、飛行機か新幹線で移動していると考えるだろう。
そうだ、裏をかいて電車で移動しよう。この事件の記事をのんびりと書きながら。。。古川はネットで経路検索を行う。飛行機と新幹線を使わない設定にした結果は、早くて明日の12時半。0時38分に岩国に着き、そこで一泊して翌朝5時2分発のJR岩徳線に乗れと言っている。
「そりゃ、無理だろ。」
古川は独り言を言って苦笑すると、姫路で一泊する行程で行くことにした。これなら明日の夕方に佐世保に着くだろう。そのままネット上で姫路と、佐世保のビジネスホテルの予約を済ませた古川は、荷物をまとめると、足早に返却口にトレーを運んだ。
「そうですか、それじゃ仕方がないですね。」
田原は、携帯電話の終話ボタンを押して折り畳むと溜息混じりにポケットにしまい込んだ。終話ボタンを押したときの「ピッ」という電子音が、誰もいない床の間の壁に吸い込まれていく。
もう一度写真データを買い取る話をしてもらい、同時にどの程度写真に気付いているのかを探るため、権田に直接古川に会ってもらうように頼んだ田原に、折り返し掛かってきた権田からの電話は、ある意味田原にとっては吉報でもあった。
田原の依頼に応え、古川にアポの電話をした権田は、既に古川は東京にはいないということを知らされた。外せない仕事もあり、東京を離れられない権田には、直接古川と会って話すのは無理だ。という電話だった。どこへ行ったのかは知らない。と、お茶を濁しているようで歯切れの悪い権田の答えだったが、古川は一週間は東京に戻らないらしい。
作品名:尖閣~防人の末裔たち 作家名:篠塚飛樹