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尖閣~防人の末裔たち

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軍艦ではない巡視船には、レーダー電波の逆探知能力はない、海自、すなわち海上自衛隊の護衛艦であれば、中国の海監の発するレーダー波の周波数は把握しているはずであり、そのレーダー波を尖閣諸島から50海里の海域にある海上自衛隊の護衛艦隊がキャッチしていれば、その内側を航行している漁船団は、海監のレーダーにキャッチされている筈である。そうであれば、海監は早々に動きを見せるであろう。その動きに遅れをとっては、漁船団に対して先手を打たれてしまう。
兼子は、船内電話を取り、通信担当に電話をする。
「御苦労さん、こちら船長、海上自衛隊第13護衛隊旗艦「いそゆき」に連絡。尖閣諸島沖の中国海監のレーダー波を受信しているか問い合わせを頼む」

尖閣諸島東方50海里には、2隻の護衛艦が航行していた。この艦隊は、佐世保を母港とする第13護衛隊に所属する4隻のうちの2隻、DD-127「いそゆき」とDD-128「はるゆき」から成っていた。

「いそゆき」及び「はるゆき」は同型艦で、海上自衛隊の「はつゆき」型護衛艦である。「はつゆき」型護衛艦は、1977年に計画され、1番艦である「はつゆき」は、1982年に就航した護衛艦である。艦首側から自動化の象徴である小さな砲塔から一本突き出した76mm単装速射砲。続いてアスロックと呼ばれる魚雷にロケットを取り付け、魚雷の射程よりも遠い目標付近までマッハ1(時速約1200km)の速度で空中から接近し、着水後は魚雷として目標潜水艦を攻撃するミサイルと魚雷のコラボレーションのような弾体を8本収納している箱型のランチャー。その後ろに標準的な艦橋構造物が続き(といっても、ステルス性に配慮した直線・平坦で傾斜がついたミニイージス的な汎用艦が増えている現状では、どちらを標準的と呼ぶかの議論もあるだろうが)、艦橋上部両舷には、接近する航空機やミサイルを正確に撃墜するために20mmバルカン砲の上部に追尾用レーダーを背負ったCIWS。そして太い煙突下部の両舷に煙突を挟むように3連装魚雷発射管とその上のデッキに射程124km以上といわれるハープーン対艦ミサイル。そして煙突の後ろにヘリコプター1機を格納できるヘリコプター格納庫がありその後ろはヘリコプターが離発着する飛行甲板が設けられている。飛行甲板の後ろには、射程約26kmのシースパロー対空ミサイルを8本収納したランチャーを設けている。シースパローは、戦闘機用のベストセラーであるスパロー空対空ミサイルから発展した艦対空ミサイルである。
これらの武装を全長130m、全幅13.6mの艦体に搭載した「はつゆき」型護衛艦は、基準排水量が2950トンと、3000トンに満たず世界的には小型駆逐艦の部類ではあるが、海上自衛隊初のオールガスタービン駆動で加速力に優れ、対艦、対潜、対空それぞれの戦闘能力をバランスよく備えた海上自衛隊初の汎用護衛艦であったため、長きに渡って自衛艦隊の中核を担ってきた。昨今は、自衛艦隊へのイージス艦配備と共にこれら汎用護衛艦もステルス性を考慮した「むらさめ」型護衛艦が主力となっており旧式となった「はつゆき」型護衛艦は、練習艦へ改装されて呉の練習艦隊に編入された艦や、既に退役した艦もある。一時期は、尖閣諸島警備のために巡視船に改装して海上保安庁に譲渡する計画もあったというが、この計画は中止となった。練習艦への改装や退役を免れた他の「はつゆき」型護衛艦は、自衛艦隊を離れて、主として担当区域の防衛、警備及び自衛艦隊の支援に当たることを目的としている地方隊に転属していった。この際に対潜ヘリコプターの運用は行わないことになった。このため現在、尖閣諸島沖を航行中の佐世保地方隊所属、第13護衛隊の「いそゆき」と「はるゆき」も対潜ヘリコプターは搭載していなかった。ちなみに「いそゆき」も「はるゆき」も1985年就航の艦である。古さは否めないが、イージス艦を相手にするのでなければ、まだ第一線で通用する艦ではある。
この海域に展開した「いそゆき」、「はるゆき」の2隻の護衛艦をまとめて指揮する旗艦は、「いそゆき」が担当していた。通常のパトロールのため、隊司令は座乗しておらず、旗艦「いそゆき」の艦長が全体の指揮を執っていた。「いそゆき」艦長の倉田健夫2等海佐は、53歳このままいけば定年まであと2年。防衛大学校を卒業後、その殆どを海で過ごして来た叩き上げの超ベテランである。出身は茨城県土浦市、日本で琵琶湖に次ぐ広さを誇る霞ヶ浦の湖畔の街で、近くにはガマガエルで有名な筑波山を望むことができる。また隣の阿見町には旧日本海軍の霞ヶ浦海軍航空隊や土浦海軍航空隊が置かれ、この一帯は古くから海軍航空教育の拠点となってきた場所でもある。航空要員不足を補うために設けられ、卒業者から特攻攻撃などで多くの若い戦死者を出した予科練もこの地にあった。現在は、いずれも陸上自衛隊の管轄となっており、霞ヶ浦海軍航空隊の主要整備施設及び滑走路は霞ヶ浦駐屯地に含まれ、霞ヶ浦飛行場として陸上自衛隊航空学校霞ヶ浦校が使用している。そして霞ヶ浦に面する土浦海軍航空隊跡地は陸上自衛隊武器学校となっており、それぞれに重要な役割を果たしている。
倉田の祖父が旧日本海軍で主に航空分野に携わってきたことから、祖父は軍務上この地との関わりが深く、この風土と穏やかな気候が気に入った祖父がこの土浦の地に自宅を建てたことから、代々土浦を住まいにしてきた。倉田の父も旧日本海軍に入り、現在では防衛大学校にあたる海軍兵学校を卒業後、父の影響で戦闘機パイロットとなり辛くも生き残った人である。戦後は、様々な仕事を転々としたが、航空自衛隊の設立に合わせて「そうこなくっちゃ!」と家族に言い残して入隊試験を受験、合格して航空自衛隊の戦闘機パイロットとして活躍した。倉田家は海軍一家であり、航空一家でもあったのである。倉田もそんな祖父、父の背中を見て育ってきたこともあり、幼い頃からパイロットを志していた。中学校に入るとパイロットになるために夢中で勉強した。夢を追い求めて自ら行う勉強は目的が明確であり、効果が大きかった。倉田の学力は周囲の群を抜くようになった。しかし暗い部屋で勉強したことの影響か、読書好きが祟ったのか、倉田の意に反して視力が悪化した。そして中学校を卒業する頃には完全な近視になっていた。パイロットへの夢は諦めたものの、海軍一家でもあった影響で、海上自衛隊を志すようになった。目標は護衛艦の艦長になることだった。
2等海佐で目標としていた艦長になって、もう7年か、定年まで艦長でいるのは無理だろうな。この艦が最後の御奉公かもしれんな。
午前2時30分に艦長室での仮眠から目を覚ました倉田は、艦橋に顔を出す午前3時までまだ余裕があることを確認し、手早く着替えを終えると給仕係が仮眠前にポットに入れてくれた熱いコーヒーを、大きめのマグカップに半分ほどまで注いだ。そのマグカップは碇のマークと護衛艦のシルエットそして「DD-127 いそゆき」と印字された艦独自のものだった。昨年の佐世保基地祭りの際に販売用に作り、売れ残りを記念として買い取ったものだった。
作品名:尖閣~防人の末裔たち 作家名:篠塚飛樹