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ひとりごと

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私という人間ではない私の静かで面白い朝はここで一旦終わることになった。


私の名前は鍵音だ。




葉と葉の重なりを抜けて赤い建物の入り口の前で私、鍵音は頭を少し下げ、存在に気づかれないようそっと抜けようとしていた。周りで騒いでいる学生たちの誰1人として気づかない様子を横目で見ながら鍵音は無事その集団を抜けた。
「キー、なんで無視していくんだよ」
その集団の中から鍵音を呼ぶ声がした。鍵音のことをキーと呼ぶものはこの大学の中でも数少ない。そしてその透き通る声はまさしく鍵音の高校からの同級生、昌下のものだった。誰?と周りの学生たちが昌下に聞いていた。昌下はそれに一つ一つ答えるのが面倒なようで、みんなの方を向き、一言、
「親友だぜ」と発した。その顔はかなり笑顔でくしゃくしゃになっていただろう。昔からそうなのだ。
「こいつ、高校のとき、アーチェリーしてたんだけどさ…」鍵音のもとにかけよって指差しながらみんなに向かって話す昌下の姿を見て、鍵音はこれまで1人で思い詰めていたようなことがすっと一瞬消えるように感じた。
「もうそろそろいかないと。今日レポートの提出日なんだ」
「そっか、今日だったか。俺何もしてないわ。キー何やったの?」
「源氏物語についてやったけど…」鍵音がそう答えると昌下は真面目だなーと笑いながら答えた。その目にはいつもと変わらない鍵音の様子が写っているのだろう。昌下のお陰でこの世界に馴染めたように感じた喜びにたいして、それが少し残念に思えた。昌下なら自分の変化に気づくのではないかと少し期待していたのだ。何?ねこになっちゃったの?と笑いながら話しかけてくることを。
「じゃあ、いこーぜ。確か第四教室だったよな」高校終わりに染めた茶色い髪が太陽の光を反射してよりいっそう染まって見える。まるでこの赤い建物と同じように、夏の緑の木々といい具合に重なりあっていた。昌下はきっとすでにこの空間になれたのだろう。それともこの空間が昌下を受け入れたのだろうか。ならば僕はどうなのか。鍵音は昌下の変わらない後ろ姿を少し眺め、その後ろをついていった。

ここで誤解がないように言っておくと、鍵音と昌下は親友ではない。少なくとも鍵音は親友だとは思っていない。昌下には鍵音より仲の良い友達が多く、クラスで隅に座っているような鍵音が親友だなんてあり得ない。もちろん、昌下は悪いやつではないし、むしろいいやつだ。鍵音はそう思っていた。だからこそ親友になりたいのは山々なのだが、昌下の今日の言葉が本当かどうか分からないということがどうにもじれったく、いつの間にか鍵音は自分がねこの姿になってここにいることをすっかり忘れていた。それを思い出させてくれたのはまた鏡だった。廊下に細長く設置された鏡に鍵音の姿がすっぽりと写されると、やはりそこに今朝と変わらないねこの姿があった。その後ろを数人の学生が通りすぎるのだが、やはり気づくものはいない。この鏡を通して写せば鍵音以外の人のもわかるのではないかと鍵音は思っていた。そんな甘いことは許さないぞと鏡は頑なに姿を変えなかった。そして鍵音にはどこにでもある鏡が自分が自分の変化を誰かに伝えるのを防いでいるように感じ始めているようだった。姿を見せつけられるたび、鍵音はもう一度今朝のしずかなものに引きずり込まれる。それは嬉しいことなのか、そう考えながら鍵音は四階に続く階段を登り始めた。

「おまえどうしたんだ。いつもにましてしゃべらないけど」そういったのは昌下だった。講義が始まる五分前のゴタゴタの中で鍵音に何気なく寄せられた何気ない言葉に意味を探してしまう。
「別に。逆に聞くけどどこかいつもと違う?」
「いや、何て言うか鏡の前でじっとしてたし。いつも髪型とか気にしないお前が珍しいなーって」
「流石に寝癖は直すぞ」
「いや、それ違うからな」
「じゃあ、なにするんだよ」そりゃあといいかけた時、扉が開き教授が入ってきた。右手に持っている黒いパソコンは先日購入したものらしい。三日前の講義で話していた。それを机におき、ヒンジを360度回し、右手に持ちながらマイクを持った。
「はい、始めるぞ」

「おい、昌下。」鍵音の横で昌下はあからさまに寝ていた。広げたノートに顔を埋め、ペンを持ちながらだ。流石にこれに気づかない人はいない。高校の頃ならまず安らかに起きることは不可能だった。後ろから蹴られたり、教科書で叩かれたり、顔に落書きされたり。だが、ここではそんなことは起きない。昌下が横で寝ながら鍵音は授業を受けている。ねこの姿で人間として受けている。なんだか自分の内側がさらけ出されているようで恥ずかしい。それでも横に昌下がいるとそれが普通に見える。昌下の茶色い髪がエアコンのかぜに揺られて動いている。それを眺めながら講義を聞いていた。

「終わったよ」
「やべ、寝ちまってた」鍵音が肩を叩くと昌下ははっと起き上がり、ノートを片付ける。
「おこしてくれよ」
「起こしたら、起こすなよっていうだろ」まあな、としぶしぶ答えた昌下の頬には下にあったリングノートの型がくっきりと残っていた。笑いそうになるのを必死にこられる鍵音の様子に気づいた昌下は鍵音の方を向いている。
「やっと笑ったな。理由は知らねーけどなんかあんなら言えよ」はっとさせられた。昌下は鍵音の異変に気付いていたのだ。鏡だけが写していた変化に昌下は気付いていた。
何か言わなくては、そう思っても鍵音には何を言えばいいのかさっぱりわからなかった。
「おまえなんか今日ちょっと違うよな。何て言うか楽しそうだった。笑ってねーけど」なぜここまで言い当てられるのか。確かに鍵音は今朝の奇妙な体験を通して自分と対話できたような、自分の内側に入り込めたようなそんな気がしてとても楽しかったのだ。
「実はさ」すべてを話そうと思っていた。けれどすべてを話してしまうとあの1人だけの楽しい時間はもう戻ってこない。今自分の姿がまだねこのままであったのならば、この後の帰り道もまた楽しめるかもしれない。ねこの自分に戻ることができるかもしれない。
「いや、なんでもないよ。今朝の占いがよかっただけ」
「おまえ占いとか信じるやつだっけ?」昌下はまだ疑問を抱いているようだった。それでもそのままにしてくれた。「まあ、いつも笑ってないしな。俺の勘違いか」
「嫌みかよ。僕だって笑うときだってあるさ」それ以上は話さずに笑っていた。
「んじゃ、帰るか」教室の扉を開く。ここから少しすれば、人間の鍵音の人生は一旦幕を閉じるのだろう。校門を潜ったときのように。

ねこが歌い出す。そんな歌詞を聞いたことがある。今の私はまだねこのようだ。さっきの鏡がまた示してくれた。鍵音をねこにした誰かは鍵音に何を伝えたかったのか、何をしてほしかったのか。あの歌詞のように歌って、踊り出せばいいのだろうか。
「そんなはずもないな」前を歩いていた昌下が振り替えって、ん?と聞いてきたが、なんでもないよと笑って返すと昌下は変なやつといわんばかりに両手をポケットに突っ込んでまた前を向いた。
作品名:ひとりごと 作家名:晴(ハル)