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ひとりごと

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しばらく景色を眺めてみた。電車の窓に写る景色は線路の壁と壁の隙間から時折姿を見せては消え、その繰り返しのなかで微妙な変化を見せた。その分かるか分からないかの微妙な差異に私の変化を重ねてみた。そして背景を暗くして、うっすらと窓に写っていた私を確立させてみた。ところで、私の体は週刊誌一冊分程度の大きさだと鏡は示していたのだが、今、私の姿は座席から離れた窓に写っている。窓の桟に座っているわけではない。普通に椅子に座っているのだが、実におかしい。この辻褄の合わない現象も朝の光のイタズラなのだろうか。
「今日はなんだか面白い一日になりそうだ」
電車は進む。そして次の駅にとまったが、ヒトは一人も入ってこない。いつもなら大量に流れ込んでくるのだが、今日だけヒトがすくなったのだろうか。すると次の駅が見えてきた。ヒトがたくさんいる。車内で、一人、一匹座っている私の異変に気づくものはいるのだろうか。電車が速度を緩めるとヒトビトは黄色い点字ブロック付近まで足を進め、開くその扉を前にして止まっている。アナウンスが扉越しにうっすらと聞こえる。私の目的地まであと三つ駅を過ぎなければならない。それまでこの姿は変わらないのだろうか。それとも私も気づかないうちにすっともとの姿に戻ってしまうのだろうか。扉が開く。そしてヒトが入ってきた。とても多い。だがこれがいつもの風景だ。始めに入ってきた黒いスーツの男は私の横に座った。「次は三月町。三月町」
「寝坊しちまったよ」
「昨日のドラマ見た?」

私の姿に驚くそぶりはない。私を奇妙な目で見ることもない。追い出そうともしない。そうしてこの繰り返しがたんたんと進み、さっきまでの空洞の車内がヒトで埋め尽くされた。
「風が気持ちいいな」
最後のヒトが乗り込むと同時に扉が閉まった。電車の窓ががたがたっと揺れる。私の体は後ろ方向へすこし揺れ、電車は進んでいく。どこか遠い場所へいくような、そんなおもしろく、また不安な感覚を楽しんでいた。

大学のひとつ前の駅で私は降りた。いつももうひとつ駅を過ごすのだが、今日はこのおかしな体を楽しんでみたくなった。私が普通に歩くと、所々に見える私の姿の写しはねこがたって歩いているように写し出される。駅前の案内板や店のショーウインドウ、カーブミラーに写る私の姿を確認するためにいつもとは違う風景を楽しんでいた。その時私は私の回りにはいつもこれほど多くの鏡になるやつが潜んでいたのかと驚いた。度々私は姿を映しているから、だからあの大きな鏡は私のことを覚えていてくれたのだろうか。さうして私の姿を変えてくれた。ふと、黄色い帽子を被った小学生に目をやると、そいつは私になんか興味がないようにもう一人の小学生のもとへ走っていった。
「やっぱりこの姿になってもだめか」踏み切りが点滅し、重苦しい重低音が体の芯を貫く。右の方に見えた赤い電車はこちらに向かって速度を増していく。私が乗っていたのとは別の電車だ。あのなかに何人の人が乗っているのだろうか。もしかしたらいつも見る綺麗な女性もいるのかもしれない。そう思うとひとつ前の駅で降りた私は何かに負けたような、そんな気がしてしまった。けれども小学生にも相手にされない私の可愛らしい姿にあの人が構うはずがないのも自明なことの思えた。踏切は黄色い手をあげ、小学生は右手を大きくあげて進んでいく。私も反対の方向へと足を進めた。
「小学生のとき、なにかあったかな」昔を思い出したくなり、校歌を口ずさみ始めた。所々歌詞がない薄っぺらいその歌は、かすかに聞こえる車輪の音を消し去るように私のあたまを支配した。
このとき私は実は昔の記憶など全く頭のなかにないことに気がついた。小学生、中学生、高校生。過去12年間続いた学生生活のほとんどを忘れてしまっていたのだ。覚えているほんの少しの記憶でさえ曖昧なものであり、今の記憶や私の妄想との境界線を飛び越して現れた。
「ならば、あのときのことを変えてみようか」そう声に出し、頭のなかで時計の針を合わせるようにぐるぐると回しに回し、昔の記憶へとたどり着いた。

あれはちょうどこの道を歩いていたときのことだ。道端に一匹のねこと古びた段ボール箱があった。飼い主は見当たらず、草木とならんで一風景と化していた。今日の小学生のようだった私はそのもとへと駆け出しねこを抱え学校まで走った。もちろん教師は校内への持ち込みを許さず、私は仕方なくねこを置き去りにした。そんな風景を私は空からみている。なぜあんなにも非力なねこをそれほど裕福でもなく、賢いわけでもない当時の私は拾ったのだろうか。同情や哀れみそんな感情をあの私が持っていただろうか。私はこの曖昧な感情がずっと許せなかったようだ。いつも心のどこかで誰にも見えないようにそっと顔を覗かせていた。雲の上からすこし曲がったガードレールの上に着地し、私が置き去りにしたねこと段ボール箱を両手に抱え、私の家の方まで向かった。歩くより速く、空を飛ぶより速かった。そしてそれをそっと玄関の前に置いたのだ。なぜそうしたのか、これも一種の同情というものなのだろう。私はこいつをつれていった。その頃より大きな私はその頃の私より大きな同情をしただけだった。
ただむなしい妄想を繰り広げた私の現在の世界はすでに大学の門にあった。覚えていないはずの幼い頃の記憶というのも実は隠れているだけで、実はこっそり居続けていた。その記憶を積み重ね、私は今ここにいる。大学にいる。見えない記憶で作り上げられた何かへの入り口を通るのに決心などいらない。いつも開いているのだ。私がなんと言おうが、そいつは日が出ている間は必ず開いている。だからここに来ると私はいつも気が安らぐ。他の誰もが拒絶してもこいつだけは。しかも今日はいつもの私ではない。ねこの私だ。こんな私でもそいつはちゃんと受け止めてくれる。受け入れてくれる。
そして私はそいつをくぐり抜け、さっきまでの通学路とはまた違う世界に入り込むのだろう。そして、重圧、風景、視線、気圧、恥、罵声、騒音、普遍、次々に違うものが重なり、私に襲いかかってくるのだ。いつもの私にはそうおもえる。だからこの世界が嫌いになった。けれど今日はねこの私。いつもは裏切る門も今日は新参者の私を守ってくれるのだろう。そうおもえる。短い手か足を伸ばし私はそっと、力強く中に入った。



すこし繁った林でつくられたトンネルでは、葉と葉の間から漏れてくる木漏れ日が道路を所々色づける。その黄色と言うか白と言うかそんな色が道路に届く前に空気中にも透明に色をつけた。その透明な色を通り抜け、すこし遠くに見える赤い校舎と重なりあった。門を潜り抜け、自分の意識の世界から抜け出した私が初めて見たのはそんな風景だった。門を潜る前の私の意識のフィルターを通した景色と何ら変わらないように思えて仕方ないのだが、その赤い建物の付近には見た覚えのある顔がいくつかあった。ねこの姿の私に気づくものはきっといないのだろうが、それでもこの格好で知り合いの前に出るのは幾分恥ずかしい。いや、恥ずかしくはないのだが、自分の内面をさらけ出しているようで、そんな言い表しにくい感情を抱いていた。
「無視してとおるか」
作品名:ひとりごと 作家名:晴(ハル)