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千と一匹の蝶

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 目を開けると赤い空が見えた。雲は少し黒く見え、木の色も黒ずんで見える。一五年前の幼い私の思い出に一人、浸っていた。結局あのあと、太陽が沈むまであの広場の前で座っていた。おじいさんはあの広場の中にはおらず、燃え尽きたような跡もなかった。手のひらの中で死んでいる蝶を見ると、さっきまで起きていた生と死の舞台が過ぎ去ったことを無残にも伝えてくる。あの日起こったことを整理するには一日では足りるはずがなかった。ましてや、まだこどもだったのだ。いくら大人に近づいたといえやはり子供だったのだ。
 今、あの時と同じことが起きたとして、私は彼よりももっと良い結末を描くことができるだろうか。今の私は彼のように想像力があるはずがなく、むしろ思考は凝り固まってしまい、あの広場にたどり着けるかどうかさえ、怪しい。それでも今の私は彼より多くの知識と経験を持っている。
 神社でおじいさんと話したのはおそらく現実の話だが、そのあとの話が現実の物なのか、いまだにわからない。当時はすべて現実のことで、おじいさんはあの場所で燃え尽きたのだと確信していたが、のちにあの神社でおじいさんの姿を見た。その時からずっとあれは自分の妄想だったのかと考えるようになった。今こうして寝そべっている草むら付近にたしかにあの広場はあったのだが、あれ以来一度も姿を見せない。そもそもあの広場が私の妄想によって作られたものであるから、至極当然のことなのだが、長い時を超え、幼かった私の思い出がもう一度あの幻を呼び起こすのではないかとも思っていたのだ。唯一姿を見せたのはあのモンシロチョウたちだけだが、やはりどこか違うようで、やあ、と話しかけても返事もくれない。ひらひらと舞う姿からあの時の思いが零れ落ちるようで、それを今になってもうまく消化できていない自分がいる。
 あのころ感じていた宇宙という概念は、今はもうない。宇宙は自然と無くなり、彼、私の心と融合して特に何の違和感もなく私の一部となっているようだ。そのなくなり方はちょうど岩が風化していく様子に似ていて、いつの間にか小さくなり、気づかないうちに消えていた。けれど、風化しただけでその存在自体がなくなったわけではないようで、そういう意味で風化という言葉が一番しっくりくる。知識が増え、様々なことを経験し、広大な宇宙でさえ自分の物にした私だが、あの時に考えていたことを日々考えることを長らくしていなかった。それは周りの空気、青臭い、青春、子供時代のものだと、大人になったのだから、もっと現実的にものを考えろという洗脳からくるものだった。限界がどうとか、そんなことを毎日気にして暮らしていたあの頃のほうがよっぽど大人だったのかもしれない。
 どうにかしてここまでやってきたが、少年だった私が体験したこの記憶によって植え付けられた殺すことへの抵抗感のなさはそのあとの人生においてかなりの苦痛を生み出した。しかし、それにより、私はこれまで人一倍死について考え、成長してきたのだろう。あのおじいさんはもうこの世にはいないだろう。いつの間にか消えてしまったのに、それをあまり悲しくは思わない。こうやって人は悲しみに慣れていくのだ。その過程が人より過激で、空想的であっただけなのだ。


「恭ちゃん、そろそろ帰ろうよ」
私のことを恭ちゃんと呼ぶのは一人だけで、友達から恋人に変わった今でもそう呼んでいる。彼女が横に座る。目の前に広がる自然の世界を二人で吸収する。吸収した空気や風景をどこかに閉じ込めておけないかと、私はカメラでその光景を写真に収めた。デジカメで電子化されたこの風景はいずれ具現化され、私と彼女の記憶を結び付けるものになるのだ。
「何かあったの」
こちらを向かず沈んでいく太陽を見ながら彼女はそうつぶやいた。聞いたのではない。その横から見える目がとても美しかった。私は彼女と話すとき、きちんと目を見て話すと決めている。あの時、おじいさんに私の声が伝わらなかったのは、あの空想的な広場に隔離されていたからではなく、私が目を見て話さなかったからだと考えているからだ。大人になるにつれ、不確定な間違いより、答えのある間違いを求めてきた。この身勝手な思い込みがどう転がるのかはさておき、彼女も同じような考えを持っているようで、恥ずかしい気持ちを抑えつつ私のほうを見つめてくるしぐさに女性らしさを見つけ、私はやはり彼女のことが好きなのだなと実感するのだ。そんな彼女が私のほうを見ずに話しかける、彼女も私がまだ話していないことが重要なことであり、やすやすと聞いていいものではないことは気づいているようだった。
「見つかったよ。でも、これは持って帰らずここに置いていこうと思う」
「何があったの?」
「何でもないよ。ただ、子供のころの不思議な体験を思い出しただけさ」
「聞いたことある話?」
「まだ、誰にも話したことのない話だよ。聞いてくれるかい」
私と彼女の会話はいつもこうで、私が何か話題を作り、彼女はそれに質問をして肉付けをする。今日も変わらず私が話すのだ。宇宙のことを。蝶のことを。おじいさんのことを。死のことを。
 風になびき、揺れる髪を彼女は片手で抑えている。正面から吹いてくる風を気持ちよく感じながら私は淡々と話していく。その間、彼女は何も言わなかった。それが彼女なりの誠意であり、その誠意を私は心地よく感じ、この原っぱの空気をよりいいものにする。ふと座っている近くに咲いていた花を摘んでみた。その美しさは地面に生きていたときも、私が積んだ後も何も変わらない。その美しさを感じられるのは私が死について漠然とした美を感じているからだろうか。それとも命を奪うことに一種の芸術を見出したサイコパスだからだろうか。紫の美しい花弁を一枚とる。あの時は渦によって飛ばされ、彼の妄想を激しくさせたこの行為を今私自身がやっている。この行為によって一体何が強まり、何を失うのだろうか。引き離した花弁が風になびき、私の手元から離れようとしているのに、私はその花の意思を邪魔するかのように強く握る。気持ちがよい風を受け止めるのは私で、この花には空を自由に舞う、その気持ちよさを味合わせない。私が花をちぎっている様子を横で見ていた彼女はやはり残酷なことを顔色変えずやる私を見て、気味悪く感じるだろう。しかし、これが私であり、偽りを見せるより何倍も楽なのだ。
 
モンシロチョウの薄い羽に太陽の光が通り抜け、色を赤く染める。実にきれいなその蝶はゆらゆらと舞いながら彼女の頭にとまった。

その赤い羽根の模様を見て私は驚嘆した。こいつはあの千匹目の蝶ではないか!死んだはずのおじいさんは生きていた!つぶしたはずのあの蝶も生きていたのだ!とするとあのカウントダウンはまだ終わっていないのではないか!気持ちがよかった風は一気にあの頃の重い空気に変わり、強く握りしめていた右手から花弁が飛び出し、春風の中を舞っていく。
作品名:千と一匹の蝶 作家名:晴(ハル)