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千と一匹の蝶

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 おじいさんが雨水を通り過ぎ、渦の中心まで踏み込んだのは蝶が878と書かれた木の棒にとまったときだった。彼はその間雨に濡れながら静止しているおじいさんを見ていた。その暇ともとれる時間の中で彼はまた一つおかしなことに気が付いた。彼の洋服や髪は雨に濡れているのに、おじいさんとたくさんの蝶たちは全く濡れていないのだ。おじいさんに関しては、あの広場の中のうずによって、雨がおじいさんに当たる前にかき乱されているに違いないという謎の確信を持っていたのだが、この蝶たちには理由がつけられない。確かにあの広場の中は彼が生きてきた世界の常識が通じないいわば異世界のようなもので、どんなことが起きようと飲みこめるだけ彼は成長していた。しかし、この蝶たちがいるのは彼が生きてきた世界であり、そんなことが起こるはずがないのだ。
 もし仮に、彼が今まで知らなかったことがここで新しく発見できたのなら、それは実に喜ばしく、かつ限界に近づくという恐怖であるということは前にも考えた。しかし、今彼はあの広場にいるわけではなく、しかも限界に連れていく象徴であった蝶はどうやら宿主をおじいさんに変えたようだった。ではこの蝶は一体どっちの世界の生き物なのだろうか。
 おじいさんは渦の中で一人何かをつぶやいている。その声は渦の力に負け彼には聞こえない。おじいさんが一言話す度、渦は力を増しているようで、それに応じて蝶が生まれてくる。蝶が二本の木の棒の間を抜けていくたびに、おじいさんからにじみ出ている生のようなものが消えていくのを感じていた。顔は力をなくし、立っている両足はガタガタと震えだした。蝶は900まで来ていた。木の棒の限界は千。どうして千だけ漢数字だったのか、つまり千は木の棒の限界であると同時に命の限界でもあるのだ。彼は千以上の数を知っている。だが、運命において、彼の知識の有無は全く無関係の物のようであった。これまでがうまくいきすぎていただけで、彼には限界を決める何の権利もなかったのだ。これまで生まれてきた蝶たちの姿は実に美しい。純白の羽にそっとつけられたかのように存在する胴体と足。そのつなぎ目からあふれ出てくる白さが雨水に屈折させられ、美しさを歪ませる。この美しさはおじいさんの命からひねり出されたものである。
 
 このままいくとおじいさんの命の限界まで蝶は増え続けることは明確なことで、彼にとってそれは避けたいことでもあった。彼にとっての唯一の理解者である存在を目の前で失うのだ。幼い彼にとってまだ経験したことのない知人の死は一体彼の宇宙のどこに身を据えるのだろうか。これまでの一切を除けやり、宇宙の中心を陣取り、彼のこれからの人生に大きな影響を与えるのだろうか。それともどこかの隅ひっそりと存在し、彼の大きな決断を邪魔、もしくは遮断するのだろうか。おじいさんが腕を伸ばした。右の指に黒い塊が接するとおじいさんの体から白い光が漏れ出し、美しく燃えだした。雨の降る広場で白く燃える人体。その火の勢いは激しいものではなく、一種、穏やかな炎で、周りの草や飛んでいる蝶たちに危害を加える様子はなかった。その火の色は確かに白であり、彼が知っている火ではなかったが、それが燃えているという現象だということはわかった。燃えだして外形をとどめなくなったおじいさんから直に蝶が生まれる。美しい蝶だ。例のごとく、蝶たちは二本の木を通っていく。
 このままではおじいさんのみが消えるのは時間の問題であり、彼はなんとかそれを止めようと策を考え始めた。考えれば考えるほど、どうしてもっと早くおじいさんのところに駆け寄り広場の中に入ること、黒い塊に触れることを辞めさせなかったのだろうかと考えてしまう。彼が自責の念にさいなまれ、彼の心の中に広場のやつとは違う黒い塊を生み出すと、空から雨が消え、青い空が戻ってきた。するとおじいさんの火の勢いが強まった。それに比例して蝶たちがどんどん生まれていく。広場をぐるっと一周する。どこか空いている棒はないのか。彼はひざ元まで伸びている草の中を走る。そんな淡い期待はかなうはずもなく、995まで蝶たちでうまっていた。すでに四匹生まれている。あと一匹。入り口でおじいさんを呼ぶ。中に入ってしまっては彼とおじいさん、両方の蝶が生まれ、余計おじいさんの寿命を早めることになる。そうなのだ。
「おじいさん、どうして燃えているの」
彼はなるべくさっき会っていた声のトーンで話そうとした。その声は聞こえていないようだが、おじいさんのもとに届くはずだと、死に際の人間に対する配慮を無意識的に手に入れていた。


  最後の一匹が生まれた。その誕生は実にあっけないもので、日常と同じ空気の中生まれた。おじいさんはそのことに気づいていないようでまた何かをつぶやいた。その口の形から言葉を推測できないかとよく見ようかとしたが、やめた。それよりあの蝶を止めなくては!それができればおじいさんは死なずに済む。彼の横をひらひらと過ぎた蝶は左周りに広場を一周していく。まるでそれまでの蝶たちに挨拶をしているかのようにゆっくり飛んでいる。不覚にもその様子に心を動かされる。彼の狭い宇宙の中を飛び回っていた何かをこいつに置き換えようと彼は静かに思った。この流れは変えることができない。こいつは彼が知らない何かを知っている。そう、こいつはおじいさんの一部なのだ。
 この悲観するべき時に空は青く澄み渡り、空気は緑のにおいを醸している。広場の気味が悪い黒い塊も姿を消していた。代わりに白く光るおじいさんの体が普通の広場の中にあった。その姿も実に悲観とは程遠いもので、彼に初めて訪れる死の前座としては的確ではないものに思えた。彼が知っている死は周りの一切の音を消し去り、名残惜しむように顔をうつむかせ、空気を二重にも三重にも背負う、そんな厳かなものだった。
 蝶が最後の木の棒にとまろうとする。木の棒の上で名残惜しいかのように回り飛んでいる。こいつらも戸惑っているのだ。このまま人生を終えるのか、それともふらっとこの規則正しい蝶の群れを離れて花の蜜でも吸いに行こうか。そんな感じだろう。ここで彼は自分の体、宇宙の奥底から何か醜い、けれどずっと持っていた一つ本能が透明のベールを脱ぎ、色を成したように感じた。こいつを握りつぶしておじいさんの命を救えないだろうか、と。その本能は頭より体を動かすのが得意なようで、体は彼の意思に反して動いていた。彼の右手に生暖かい感触が広がり、手のひらに収まりきらなかった残骸が草の上にひらひらと落ちる。白い羽が風に押され、彼に押され、飛ばされていく。彼の宇宙の中を飛び回っていた蝶はその透明だった色を黒く変え、もともと黒い宇宙の背景の中に消えていった。
 
 こうして彼は殺すという人間が自然と持っていた透明な本能を自分の物だと認識し、彼の体になじませた。







作品名:千と一匹の蝶 作家名:晴(ハル)