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千と一匹の蝶

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 蝶たちがとまっている木の棒をじっとよく見ると、ぴっと線が引かれていた。何かの模様かと考えたのだが、その左隣の木を見た瞬間に、それが数字の1を示していることに気が付いた。木に刻まれたかのようになじんでいるその数字は左に進むほど大きくなっているようで、少し向こうには8とある。今、四匹の蝶たちは1から4まで止まっている。決して同時には動かさない羽の動きを見ている。初めの二本の木の右側の木を見てみた。そこには千と書かれてあるようで、その上には何も止まっていない。広場の中で渦が回る。黒い塊はより一層黒くなっていく。その黒の塊の中から白い蝶が姿を現し、ひらひらとその命を使い切るかのように飛び、二本の木の間を抜け、5と書かれた木の上で羽を休めた。と同時にその五匹目の蝶は動きを止めた。それまでの蝶たちとは少し違うようだ。それはごく自明なことで、彼が彼以外の人間と違う人生を送ることと何ら変わりのないことであった。しかし、その自明に違和感を覚えたのだ。ここは彼がこれまで生きてきた場所と少し違う場所。あの蝶たちは模様が違ったり、大きさが微妙に違うとしても、彼を監視し、彼を限界の外側へ運ぶという一貫的な使命を持つ物体なのだ。その一貫性を欠いた存在は今の彼にとっては混乱を巻き起こすだけの邪魔ものに変わりないのだ。石のように固まった五匹目の蝶はその視線を彼のほうには向けていない。広場の内側、あの黒い塊のほうを見ている。彼が二本の木のそばを離れてその蝶のもとに歩み寄っても逃げることなくその場で固まり続けた。いつまでじっとしていられるのか、今、この蝶から呼吸や生きていることで感じ取れるはずの物がすべて感じ取られない。それはこの蝶が生きるという存在を止めるという挑戦をしている証拠であると考えた彼はこの蝶の限界を見たいと考え、その場に座った。


 ある日、道端に死んでいた何かの虫を拾い上げて土に埋め、静かにその様子を見ていた。彼がまだこの神社の存在を知る前のかなり昔の話で、彼自身、どこまで現実のことでどこからが彼が作り上げた妄想なのか、その境界がわからなくなっていた。その曖昧な中でも、きちんと覚えている映像をしっかりと今の彼の目に映す。思い出と化していたイメージを現実に思い起こす。あの虫はあの後地面を突き破り、元の場所まで自力で歩き、元の場所でまた死んだ。彼なりの優しさをもってその虫の生死を判断して埋めたのにもかかわらず、あの虫はまだ生きたいとまた苦しいはずの死に場所へ自ら向かい、そしてまた死ぬのだ。彼がほかの何の感情や理性、知識を伴わずに行った優しさの行動は必要なかった。


 この蝶も地面に埋めれば、またここまでやってきて、苦しい一生を繰り返し、彼が抱いている死への悲しみを紛らわすことができるのだろうか。昔と今で違うのは今の彼は限界を知った大人の子供であるということ。昔の彼の行動はやさしさという人間が生まれながら持っているであろう感情によって引き起こされたものであり、今の彼のように安堵や何かを欲するためには行われていない。彼は単純なやさしさというものを感じ、受け渡すことができなくなっていた。ここに来るまでに落としてしまったものの一つであった。

 
 五匹目の蝶の前で少し座っていると、あの広場のぐちゃぐちゃな景色の向こうにだれか人の姿を見た。ぼんやりとしていながら、きちんと形を保って存在しているその姿がおじいさんの物だと気づくのにあまり時間を要さなかった。おじいさんも彼と同じように砂利道を歩いてくる。そうしてあの二本の木の前までくるとそこをまるで何もないかのようにきれいに通り抜けた。そうだあの二本の木は彼が作り出したもので、存在していないのだった!おじいさんが渦に触れる。渦の外側に触れ、おじいさんの体がまかれていく。おじいさんの右の指の組織が少し取り込まれると、渦は回転を一気に早めた。まるで何か別の物に自分の体を合わせるかのようにだ。ぐるぐると回った渦の中心から一気に白い蝶たちがあふれ出す。押し出されるように二本の木から出てきた蝶はあの広場をかこっている木の棒に一匹ずつ止まっていく。渦がだんだんと黒くなる。スピードが速すぎて黒が真ん中に行くまでに書き混ざられてしまうのだ。手前で白く光っている蝶たちの影が後ろの渦の黒さに負けてその存在を許されないようで、五匹目の蝶と同じように羽を止め、石のようになっている。渦の片鱗が広場の限界を飛び越してきた。鋭い風の鎌となって固まっていた蝶の体を削っていく。少しずつ削られていくにもかかわらず、蝶たちの体はかけることなく、その木の棒にとまっている。
 広場からあふれだした渦は青い空まで届いたようで雲をかき乱し、雨を降らした。彼の頭上には空以外何もなかったため当然のことながら雨に濡れてしまう。短い髪が少し元気をなくし、着ている服は雨に濡れて色を変えた。一体どうして色が変わるのか。雨には色はない。つまり雨と服が何かの反応をして色を変えているのだ。しかし、このことの答えを大人に聞いても無視され、幼い子供の戯言だとながされてしまうのだ。向こうにいるおじいさんに聞けば何かわかるのだろうか。おじいさんと声に出してみた。少し大きめに出したにもかかわらずおじいさんには聞こえていないようで広場の中でただ立っている。もしかすると雨の音に負けているのかと思い、彼はさっきよりも大きな声でおじいさんを呼んでみた。すると渦はその声を跳ね返し、彼の体に突き刺した。突き刺さったその声から彼は彼が無意識に思っていた、自分が聞きたかったこととは違う別のことへの疑問を思い出した。
「この六匹目以降の蝶たちはもしかしておじいさんの物なのかい」



 雨が降り、地面の色も変わっていく。草に落ちた雨水はそこでこれまで背負ってきた重みを捨て、跳ねる。跳ねた雨は地面に吸い込まれるのだが、あの広場に落ちた雨水は渦の力に吸い込まれるようで、黒い中に透明なものを見つけた。おじいさんの近くにもそれがある。おじいさんもそれに気づいたようでそれに近づいていく。彼はその黒さを恐れていたため、それに近づくおじいさんに対して疑問を抱いた。これほどまで容易に恐怖に立ち向かう人間がそこにいる。その透明な液体まで近づいたおじいさんはそれに触れた。すると黒い塊から一気に蝶たちがあふれ出した。白い羽の残像から、渦の中心は白く見え、おじいさんの姿も見えなくなってしまった。しかし、その純白もそう続かず、すぐに前の黒さに戻った。出てきた蝶たちは例のごとく二本の木を通り抜けていく。そうして彼の頭上、前後を通り抜け木の棒にとまっていく。ここから見える範囲の木の棒にはすでに蝶がとまっている。実におかしなことに、蝶たちは何の狂いもなくその木の棒にとまるのだ。一匹くらいどこか別の場所にとまってもおかしくないのだが。たくさんの蝶が規則正しく木の棒にとまっている光景は彼にとって初めてなものであり、その蝶の優雅な様子からは美しさを、雨の中に群れている様子からは違和感を、その規則からはみ出し地面に立っている彼自身の存在からは孤独を感じていた。ここにいる彼以外のすべての生き物はこの不可思議な世界を平然と過ごしている。
作品名:千と一匹の蝶 作家名:晴(ハル)